Q.民主主義とは? −「ワ」の視点でみる民主主義−

「ワ」についての記事を書いていると、『誤解を生じる説明かもしれない』と思うことがあります。

「ワ」の思想は、何かや誰かを批判する目的をもちません。「ワを大切に生きている」ただそれだけです。しかし、それ故に誤解を生じることがあります。誤解を生じる恐れのある事柄についてはしっかりと「違い」や考え方を明記することが最善だと思っています。

例えば「皆の意見」「皆で協力して」という表現もそのうちの一つです。「皆の意見で決めよう」というような主義に「民主主義」がありますが、「ワ」と「民主主義」の考え方を同一視した場合、「ワ」の解釈が別の方向へ進んでしまうかもしれないという懸念から、このページを作成してみました。

「ワ」の思想からみる「皆で決めること」と、「民主主義」とは異なります。まずは知識として「民主主義」という言葉の意味を知り、そこから「ワの視点でみるとどうなるのか?」という感じでその「違い」を書いてみたいと思います。

とても長い記事になってしまいました。時間のない時は、【目次】を読んでみてください。

目次

民主主義とは?

まずはじめに、「民主主義」という言葉の意味を調べてみました。
以下のように書かれています。

(引用文のリンク(下線)はページ内リンクです。当ページ内の該当箇所へジャンプします)

人民多数の意志が政治を決定することをよしとする思想や、それを保障する政治制度あるいは政治運営の方式、と要約できる。(後者の意味では)法律、政策、指導者、国家などが直接的または間接的に「人民 (people) 」によって決定される統治システム。

ウィキペディア日本語版【民主主義】から一部引用

民主主義の対義語は「独裁主義」や「全体主義」です。

これらの説明と対比しながら「ワ」の思想との違いを説明してみます。

「ワ」とは?

まずは「ワ」の思想を知らない方のために「ワ」を簡単に説明しておきます。

「ワ」とは、物事の捉え方や考え方の概念を表した「ワの会」独自の思想で、「ワ」「マル」「螺旋」「球体」の考え方で全体をみる方法です。

世の中のバランスが崩れていると感じる世界で、『どうしたら皆が幸せに、豊かに暮らせるようになるのか』そして『皆の意識が変われば世界も変わる』という考えを一つにまとめてみたら「ワ」という考え方にたどり着いたという「ワの会」オリジナルの概念です。『世界をよくして、自分も安心して幸せに暮らす』ための方法が「ワ」です。

「ワ」については、以下の記事で詳しくまとめているので、そちらを参照ください。

1:「多数の意思が政治を決定する」に対しての考え方

それでは、先ほどの「民主主義」の意味に書かれている言葉について、それぞれ比較しながら見ていきたいと思います。まずは「人民多数の意思が政治を決定する」に対しての考え方です(以下、「人民多数」を「多くの人々」と言い換えて説明します)。

民主主義では、「多くの人々の意思」で政治を決定するとしています。これはいわゆる「多数決」ということでしょうか。大勢の人(皆)が賛成する意見が正しいとする考え方です。

それに対して「ワ」の思想では、「多くの人々の意思」で政治を決定することは、たいていの場合は「ワが乱れている」と考えます。理由は、「多くの人」という定義が曖昧で様々な解釈を生じてしまうからです。

「ワ」の思想では、この民主主義での決定方法は「ある一定の条件下でのみ”ワ”となる」と考えています。その条件から外れている場合、ときに「ワを乱すこと」を加速させてしまうため、これらをよしとして決定意思することをたいへん危険視しています。【「ワ」が考える「民主主義が成立するある一定の条件」とは】

また、これは、「次々と”ふるい“にかけられ自由な意思決定が狭められていく」という見方もできそうです。

「多くの人」の定義とその結果としての「決定事項」について、「ワ」の視点で書いてみようと思います。

(1) 総数[全ての人々](様々な価値観を持つ総数)

まずはじめに、大前提の定義として人々は皆、様々な価値観や思想、信念や信条を持って生きていて、みな、一人一人がそれぞれ異なる「気持ち(心)」を持っている、と「ワ」では考えます。皆が個性をもつ違う人という意味です。

皆がまったく同じ意見をもつことはほとんどなく、「人の考えや気持ちは千差万別」ということです。価値観や思想の他に、会社や家庭内、その他のコミュニティなどでの立場的な考えを含むこともあるかもしれません。

複数のコミュニティーに属していたり、責任のある立場を任されていたり、信念を貫いて生きていたりなど、皆それぞれです。それぞれ考えが異なる人々を全部(全て)とみなし、その全体としての総数を「多くの人」の第一の定義とします。

まず、これが「ワ」の視点での全体を通した総数としての「多くの人」という認識です。

(2) 参加者[何かの目的や意図を持って抽出](主に分母)

民主主義で物事を意思決定する場合、なにかの目的を持って、意図的に”多くの人“を「総数(1)」ではなく、何かの目的や意図を持って抽出された「参加者(2)」に置き換えることがあります。(便宜的に「参加者(2)」とよびます)

「総数(1)」で決めるのか、それとも、「何か」目的をもって抽出された多くの「参加者(2)」で決めるのか。これが第一の大きな問題点になる、と考えます。

「総数(1)」では、すべての人々が様々な意見を持っているため、政治を決めるにあたりなかなか話がまとまらないと考えられますが、抽出された「参加者(2)」なら人数が絞られるため、物事を決めやすくなるというメリットがあるのかもしれません。【例:間接的な民主主義など】

しかし、「ワ」では、この「目的を持って抽出された参加者(2)」という多くの人が政治を決めることは偏りや歪みを生じ、結果として「ワを乱す」と考えています。例を4つ挙げてみます(以下に挙げる4つの例以外にも、後項「間接的な民主主義」にも別の視点からの説明を記載しています)。

例1:戦争に対する様々な考え

1つ目の例は、戦争についての考え方です。

戦争に対して、人々には様々な考えがあるようです。「戦争は絶対だめ!」とする考え以外にも「守るために戦うのは正義!」とか、「正しさを証明するために戦うのだ!」など、これまで見聞きしたことのあるパターンだけでもいくつかの思想の違いを挙げることができます。

「ワ」では、争いは「ワを乱す」ため、戦争を否定する立場を取りますが、例えば、政治を決定する「参加者(2)」として、「守るために戦うのは正義!と考える人」ばかりが抽出された場で話し合いが行われたり、多数決をとられた場合は、「戦争を肯定する意見」を決定意思として採決し、政治が進む可能性が大きくなります。

「ワ」では、これを「ワが乱れる=民主主義が乱れた状態」と考えます。

例2:消費税に対する様々な考え

2つ目の例は、消費税についてです。

消費税についても様々な考えがあるようで、人々は「減税すると財源が無くなるからダメ!」とする考えや「国債を発行すれば解決!」とか、「消費税自体が不要だ!」など、思いつくパターンを挙げるだけでもいくつかの思想の違いが考えられます。

「ワ」では消費税などの税金については、特有の考えを持っているため、一概に賛否をいうことはできませんが、政治を決定する参加者として、例えば「消費税の税率を引き上げたい人」ばかりを抽出した場で話し合いが行われたり、多数決をとられた場合はきっと、「消費税の税率はさらに引き上げられる」ことになるでしょう。

これでは、何が正しくて何が間違っているという議論が、一方的に進みます。「答えありき」の一方的な議論は「ワを乱す」行為で、これを「民主主義が乱れた状態」と「ワ」では考えます。

例3:憲法改正に対する様々な考え

憲法改正についても様々な考えがあるようです。人々は、「憲法は変えないで!戦争は絶対反対!」とする考えや「憲法9条を改正して、守るために戦う!」とか、「主権は国民から政治家へ!国民の自由や権利はいらない!」など、思いつくパターンを挙げるだけでもいくつかの思想の違いが考えられます。

「ワ」では憲法改正について、「まずは、すべての国民が賢く、正しい知識を得て初めて判断することができる」と考えるため、「現時点では、憲法改正をする時期に到達していない」と考えます。「国民が正しい知識を得ること」が最優先です。

ですから例えば、いま、政治を決定する「参加者(2)」として、「憲法を改正したい人」ばかりを抽出した場で話し合いが行われ、限定された側面だけを表示(告示)されたらきっと、憲法は「すぐに改正される」ことになるでしょう。

「日本国憲法」は国の最高法規なので、あとから『国民にとってよくない方向へ変更されていた』と気づいても手遅れです。「答えありき」の一方的な議論は「ワを乱す」行為です。これは「民主主義が乱れた危険な状態」と「ワ」では危惧しています。

例4:移民政策に対する様々な考え

移民政策についても同じです。人々は、「移民は絶対反対!」とする考えや「日本のルールを守ってくれるならよいのでは?」とか、「(経営者の立場で)補助金がもらえるから移民は大歓迎!」など、思いつくパターンを挙げるだけでもいくつかの思想の違いが考えられます。

「ワ」では移民については、特有の考えを持っているため、一概に賛否をいうことはできませんが、ほとんどの場合で「ワが乱れている」と考えます。特に、現在行われている「移民政策」については、「ワを乱すための政策」と言っても過言ではありません。

そのような中、政治を決定する参加者として、例えば「移民政策で利益を得られる人」ばかりを抽出した場で話し合いが行われたり、多数決をとられた場合はきっと、「移民がますます増える結果になる」ことが予測されるでしょう。

これでは、何が正しくて何が間違っているという議論が、一方的で、かつ視野が狭まれて行われます。「移民に対する福利厚生」「社会保障」「死生観や宗教観」などを含めて、近未来的にどうなるのか?という予測さえ立てられていません。「移民を入れるという答えありき」の一方的な議論は「ワを乱す」行為です。これは「民主主義が乱れた状態」と「ワ」では考えます。(【ワから見る移民政策】の記事を執筆予定です。)

(3) 意思決定者[回答者](主に分子)

「民主主義は多くの人の意見で決まります」とはいえ、「皆が必ず意見を出す」とは限りません。

例えば選挙などが良い例です。選挙権をもっていても、すべての人が投票するとは限りません。また、上記「参加者(2)」のように、意図的になにかの目的を持って抽出された「多くの人とされる集団」の場合には、回答率が上がる可能性はありますが、その回答自体が偏ったものになるという懸念が残ります。

別の視点としては、選挙で選ばれた議員も「回答者(3)」といえそうです。国民の代表として、国会で国民の意思や自身の考えなどを伝える役目をもちます。【間接的な民主主義】

「ワ」では、「多くの人」の定義を「回答者(3)」とするのも「ワが乱れている」状態と考えます。具体的に説明してみます。

回答率や参加率などの割合

「”回答率”や”参加率”などの割合」は、例えば「投票率」や「支持率」などのことです。「参加者(2)」や「総数(1)」に対しての「回答者(3)の数」で計算された割合で、計算式は[回答者(3)➗参加者(2)]もしくは、[回答者(3)➗総数(1)]です。パーセント表示にするなら、さらに[100倍]にします。

例:投票率

「投票率」は、選挙権という枠組みで「参加者(2)」が決められていて、それに対してどのくらいの人が投票(回答)したのか?という割合です。

この参加者(2)は「法に則った」ものです。本来、「選挙権をもつすべての人が選挙で投票する」ということで民主主義が成り立つと考えますが、昨今の投票率は高くても50%台です。これでは皆の意見を政治に反映させることができず、「ワが乱れている」と言わざるを得ません。

少し大げさな例を挙げますが、例えば選挙の投票率が49%だったとします。これは、政治に参加した有権者(回答者(3))が過半数を割れていたということで、最近の選挙ではこのようなことがしばしば起こります。「回答者(3)が過半数を下回っている投票率で、当選者が決まる」ということは、本当に「多くの人の意見が反映されている状態」といえるのでしょうか。

「ワ」では、このような選挙に行く人が減少してしまうような場合には、「何か」が「どこか」で「不具合」を起こしている「ワが乱れた」状態だと考えます。『なぜ選挙に行かないのか』『どのようにすれば選挙に行く人が増えるのか』を考え、ときには『法の見直し』を行い、主権を持つ国民が積極的に政治に関わるように環境を整えることが必要だと強く感じています。

例:支持率

「支持率」は、参加者(2)に対してどのくらいの人が「支持する」と回答するか?という割合です。

「支持率」の詳細な調査方法は不明ですが、多くの場合、無作為に抽出された人が「参加者(2)」となり、さらにそこから「回答者(3)」の答えが集計されるようです。

しかし、その調査方法は「固定電話」か「携帯電話」か「インターネット」か「街頭で直接」かなど透明性がありません。また、抽出方法についても「男女」や「年代」や「職業」などの区別をしているのか、しているのなら「先にしているのか」それとも、アンケート後に「集計しているだけか」これもまた不透明です。さらにその集計は「回答者(3)」だけの比率なのか、回答しなかった人も含めた数字なのかさえわからないことが多いような気がします。

なにが言いたいのかというと、「ワ」では、このような割合を調べる調査を「数字を操作することが可能なもの」または、「収集対象(参加者(2)や回答者(3))を変えることで高低率を意図的につくり出すことができるもの」と考えています。

意図的に操作していると言い切ることはできませんし、しませんが、「参加者(2)」を意図的に抽出したり、「回答の内容」を限定したりすることによって、「割合は連動して変わる可能性がある」ということの危険性をここで挙げておきたいと思います。

回答する答えと内容の操作

「参加者(2)」のように、意図的になにかの目的を持って抽出された「多くの人とされる集団」の場合、「回答する答え」が偏ったものになったり、「ゴール」があらかじめ決まっていてるのでは?という懸念が残ります。

例:偏った回答

意図的になにかの目的を持って集められた「参加者(2)」の場合、各人が回答する答えは、その「なにかの目的」に沿った回答が多くなる可能性が高く、同じ目的をもつ「参加者(2)」が議論し、結論を出せばおのずと答えは偏った回答になります。【前項の「参加者(2)」例1〜例4】のように、です。

「民主主義」で話し合いが行われても、根底の価値観が同じ人だけが集まれば、同じような意見しかでませんし、また、反対意見がでたとしても、皆揃ってそれらに反対し、いろいろな意見を出し合うという「民主主義」のよいところが無視されてしまいます。それは「ワ」が乱れているということです。【例:ホームとアウェイ・同調圧力他】

例:ゴール(結論)や方向性が決まっている

意図的になにかの目的を持って集められた「参加者(2)」の場合、すでにゴールや方向性が決められているのでは?と感じることがあります。

もし「ゴールがあらかじめ決められている」とすれば、国民に気づかれないように民主主義のやり方を演出して、決まった結果になるように誘導していかなければなりません。このような場合は、「議論をして多くの人の意見で決めていく」という本来の「民主主義」ではなく、「多くの人」を何かの目的を持って選出された「参加者(2)」に置き換えることによって、「民主主義が成立したように」見せかけるのです。【例:演出という見せ方】

いわゆる「出来レース」です。

わたしたち国民が、『偉い人が議論して決めた』と思っていることでも、実は「結果はすでに決まっていた」としか考えられないことがあります。また、まっさらな状態から本当に議論して決めたとしても、「参加者(2)」に偏りがあれば、偏った意見しかでないので、言い換えれば、「結果の方向性はすでに決まっていた」といえるのです。

このようなことから、幅広い意見を集め、多くの意見を議論することができないような場合は、「ワが乱れている」と言わざるを得ません。

2:「直接的」と「間接的」に対しての考え方

次に「直接的」と「間接的」に対しての考え方です。

民主主義では、人民多数の意志が政治を決定する方法として「直接的に決定する方法」と「間接的に決定する方法」があるようです(以下、「人民多数」を「多くの人々」と言い換えて説明します)。

ワの視点から「直接的な民主主義」と「間接的な民主主義」を見てみたいと思います。

「直接的」な民主主義

「直接的な民主主義」は、多くの人(国民)が政治を直接決めることで「直接民主主義」といわれています。

「ワ」では、直接的な民主主義は「ワ」が整えられやすいと考えますが、完全な「ワ」とはいえず、「ワ」が乱れやすいとも感じています。その理由は2つあります。日本における直接的な民主主義について「ワ」の視点で感じるところを説明してみます。

回答が「YES」か「NO」のみに絞られる

日本において、「直接民主主義」になっているのは「日本国憲法の改正」です。

「憲法改正」について書かれている条文を読むと、国民が意思表示できることは「承認するかしないか」だけです。いわゆる「賛成」か「反対」の意思表示です。記される「内容(中身)」や「文章(表現)」について国民は議論することはできず、国会議員である「代表者(回答者(3))」にすべて任されています。

日本国憲法 第9章 改正 より一部抜粋

第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議(はつぎ)し、国民に提案してその承認(しょうにん)を経なければならない。この承認(しょうにん)には、特別の国民投票(こくみんとうひょう)又は国会の定める選挙の際行は(おこなわ)れる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

日本国憲法 第9章 改正 より一部抜粋し、ふりがなをつけています。

(筆者の解釈を読む場合はクリックしてください)

第96条 この憲法の改正は、「衆議院」と「参議院」各議員の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が「憲法の改正」を発議し、国民に提案して「憲法改正が正当である」との承認を経なければならない。この承認には、特別な「国民が直接おこなう投票」、または、「国会が定める選挙の際に行われる投票」において、その過半数の賛成を必要とする。

直接議論したり意見をいえる場がない

先にも書いたように「日本国憲法」の改正は「直接民主主義」での方法が採用されています。

しかし、「憲法改正」についての議論に国民は直接参加することができません。意思表示を直接することもできません。『間接的に国民の意思が反映されている』と説明されることがありますが、国民は国会議員を「憲法改正の公約だけ」で選んではいないのです。

このような状況は「ワ」が乱れていると言わざるを得ません。そして、このワが乱れたままの状態で、「民主主義の数の操作」に記載したような作戦で「数」を増やされてしまえば、国民が正しい理解ができないまま憲法が改正されてしまいます。『憲法の改正がダメなのではなく、国民が分からないまま変わってしまう』のがよくないのです。

「間接的」な民主主義

「間接的な民主主義」は、選挙で選ばれた代表者(議員)によって政治を間接的に決めることで、「間接民主主義」といわれています。日本では、選挙で選ばれた議員が「国会」などの議会で政治を決めています(代表性民主主義)。

日本国憲法では第4章に【国会】、第5章では【内閣】、第8章では【地方自治】について記されています。

「ワ」では、間接的な民主主義は「ワが乱れやすい」または「ワが乱れている」と考えています。その理由は、上の「参加者(2)」や「回答者(3)」の項目にも記載していますが、別の視点から2つの例を挙げてみたいと思います。

「国民の代表者」としての意識(選ばれる側)

間接民主主義は、国民の「総数(1)」ではなく、選挙権をもつ「参加者(2)」が「回答者(3)」にもなり、議員という自分の代わりになる「回答者(3)」を選挙で選びます。

目的は「国民を代表する人を選ぶ」ことで、議員は「国民の意見や意思を伝える」ことが使命であり、任務といえそうですが、現状をみると国会などの議会で「国民の意思を反映していない」と思えることがとても多いように感じます。

「選挙制度」などの問題点もあるとは思いますが(選挙区など)、「投票率」が低い(国民が代表者を選んでいない)ことや議員の公約が守られていない(国民主権が守られていない)ことも原因だと考えられます。

これらは言うまでもなく「ワが乱れている」状態で、とても危険なことです。

「自分の代わり」になる人を投票する基準(選ぶ側)

間接民主主義は、国民の「総数(1)」ではなく、選挙権をもつ「参加者(2)」が「回答者(3)」にもなり、議員という自分の代わりになる「回答者(3)」を選挙で選びます。

『国民が誰を選ぶか』の基準がとても危ういものになっていると「ワ」では第二の大きな問題点として危険を感じています。あまり深く考えず、雰囲気や流れ、人気のある人に投票しているような気がしてなりません。

このような『感覚』で投票することは、未来の日本にとってとても危険な兆候で、「ワが乱れ」ていて、さらに「ワの乱れが加速する事態」と言わざるを得ません。【以下で具体的に説明しています】

ワで見えてくる「民主主義」の課題や問題点 懸念点

ここまでは「民主主義」の意味に書かれている言葉について、それぞれ比較しながら見てきました。ここからは、「ワ」の視点から見た「民主主義」の課題や問題点について書いてみたいと思います。

民主主義は「多くの人」の意見で未来を決めるという考え方です。これを逆手に取り「多くの人」を意図的に作り、全体的な流れを意図的に作り出すことで、民主主義が悪用されてしまう可能性があると「ワ」では考えています。

「多くの人をどう捉えるのか」これが、最大の課題です。本来、「多くの人」は作るものではなく、「聞く対象者」です。「多くの人を見せかけでつくっただけの」見せかけの「民主主義」は本来の民主主義とは似て非なるものです。

「多くの人」に対しての考えられる懸念点を挙げてみます。

(具体例をいつくか挙げようと書いていたら、思いの外多くなってしまいました。項目が多すぎるため、あまり詳しくは書きませんでした。ぜひ、自身の「頭脳(思考)」と「心(気持ち)」で考えてみてください。また、この他にも様々な懸念点が見つかると思います。気づきの「きっかけ」となれば幸いです。)

[1]「見え方」や「見せ方」の操作

民主主義は「多くの人々」の意見をいかに大切に、そして重要に扱うことができるか、という考え方が大切です。そして、多くの人々の意見を大切かつ重要に扱う場合、それらの多様な意見や意思をいかに吸い上げることができるかの器量や技術が必要だと「ワ」では考えます。「多くの人々」の「多くの意見」が出て初めて議論でき、民主主義が成り立つからです。

しかし、それらを省略して、「多くの人を意図的につくる(演出・操作する)」ことにより、「皆の意思」を意図的に作り出し(洗脳)、民主主義に見せかけられている可能性があります。(ワを大切に生きていると『あれ?変だぞ?』と気づくことができます)【例:参加者(2)を意図的に抽出する例】

「多くの人の意思」は「民主主義」の根幹です。この「多くの人」を「皆の意見を知るため」という中立的な立場ではなく、利害関係などを目的として「人を集め」て「多くの人」とすることで、数字や、集められる意見、最終的な結論などが操作されてしまえば「ワ」は乱れ、未来に不安が残ります。

「割合」という見え方

○○率を単純に信用していませんか?

「総数(1)」「参加者(2)」「回答者(3)」を意図的に変えたり、集めたりして、または、計算式を意図的に変えることにより、○○率の結果は変わります。【回答率や参加率】

これは、「割合」を操作できるということです。集められた数字が正確であっても、集める基準や計算式が変わってしまえば、その割合を「高く」見せかけたり、または「低く」見せたりして、印象を操作することが可能だということです。

正しい判断をするには、私たち国民は、どういう基準で「多くの人」が集められ、また、どのような計算でその割合を求めているのかを知る必要があります。

ときに、その計算式がとても難しい計算式になっていることがあります。専門家のような『頭の良い人じゃないとわからない』と、「知ること」に対して「さじ」を投げてしまいそうになりますが、本来、割合に対しては簡単な説明ができるはずです。というより、割合を難しくする必要はありません。『難しい計算式を使うには、なにか理由があるかもしれない』くらいの気持ちで、自分自身で『ん?なんか変だぞ』と気づき、自ら調べていただけたらなと思います。

また、分からないからと「さじ」をなげ、その「分からない」ことを「分かりやすく」解説している動画などに答えを求めるのは、『もしかしたら、危険かもしれない』と、知っておいていただきたいと思います。どの視点から見るかによって、見え方は全く違うものになり、偏った情報を入手する可能性が生じるためです。【例:皆がという見せ方・レッテルを貼るという見せ方・視点を変えるという見せ方・再生数や閲覧数で判断する危険性他】

「ふるい」という見え方

この「ふるい」という見え方は、『次々と”ふるい“にかけられ自由な意思決定が狭められていく』という見え方です。

この場合は、自分に見合う『選択肢がない』と感じるため、『自分は極少数の考えかも』と自分の考えに自信がもてなくなったりします。

また、国民全体を「総数(1)」とだと仮定した場合に、何かしらの”ふるい”にかけて「参加者(2)」を抽出し、さらに”ふるい”にかけて「回答者(3)」を抽出、さらに”ふるい”にかけて「回答者(3)」を絞り…と続けていくと、多くの人が絞られ「多くの人という名目の」少数の人になる、というからくりも完成します。【例:様々な考え】

それだけでなく、「ふるい」は一定の思想を排除する方向に機能することがあります。何らかの目的に対して思わしくない意見を「ふるい」にかけて落としていくようなイメージです。【例:同調圧力・空気を読む・踏み絵他】

いずれの「ふるい」も「民主主義のワを乱す」ことに変わりはありません。

「皆が」という見せ方

『空気を読む』『常識的に』など、私たちは無意識に「皆」「周り」を意識して生活しています。ですから無意識に「多くの人」を感じているといえます。

国会などで会議を開くまでもなく、各自の心の中で『皆がやっているから自分も』という擬似的な民主主義の心理が働いています。

そのような心理を逆手に取り「皆がやっている」と演出すれば、自分自身も『無意識に同調』してしまう可能性が高くなってしまいます。【例:同調圧力・人気・疎外感他】

『皆がやっている』ことが「ワ」の行為なら問題を生じる可能性は少ないと考えられますが、もし、『皆がやっている』ことが「ワを乱すこと」だった場合は、日本の未来の安心や安全が崩れる危険性がとても高くなってしまうのです。

これは、皆が気づくべき危機だと「ワ」では感じています。

「正義の味方」という見せ方

何が「良い」ことで何が「悪い」ことと考えていますか?
何が「正義」で、何が「悪」ですか?

誰の心の中にも「善悪」の心はあると考えます。しかし、思想や宗教や家庭環境、または、各自の体験などから「善と悪」や「正義と悪」などの定義が少しずつ異なることがほとんどです。

極端な例ですが、戦時中の「正義」と現在の「正義」は、全く異なる基準で真反対の意味の「正義」です。戦時中に『戦争に反対です』などと意思表示したらきっと犯罪者として扱われたことでしょう(あえてあやふやに書いています)。

そしてまた、「正義」が強くなりすぎると、ジャッジする心理に繋がります。他者に対しても自分に対しても、です。個人が個人をジャッジして裁くような行為は「ワ」ではありません。「ワ」が乱れ、「ワ」の乱れが加速していく行為と考えます。【例:レッテル貼り・数の力・人気は正義?他】

ですから、法律としての「正義」はもちろん、常識としての「正義」や「善悪」も時代により移り変わるのかもしれないということを念頭に置き、そしてまた、現在「常識」と謳われている事柄も、本当に多くの人の「善し」なのか、それとも作られた「常識」なのかをそれぞれの人が感知する必要があると「ワ」では考えています。

「レッテルを貼る」という見せ方

人が他者を批判するとき、「レッテルを貼っているな」と感じることが多々あります。そして、レッテルを貼るだけでなく、その相手を蔑んだり、貶めたりする印象操作を行っていると見受けられることも多いです。また、「言ってみただけ」くらいの軽さで「レッテルを貼って貶める」人や「売り言葉に買い言葉」のように互いが増長して終わらないようなことも多いように感じています。

レッテルを貼る側は、第三者へのアピールを目的として「相手側の信用を意図的に落とし」たり「悪者に仕立て上げたり」などの印象操作をし、レッテルを貼った本人等に対しては、相手の自信を失わせて自己卑下や罪悪感などのマイナス感情を生じさせ、相手を心身ともに弱らせ、意見ができない環境に追い込んだり、孤立させようとします。【例:マウント・○○派・言ったもん勝ち】

多くの人をつくりたい人たちにとって、この「レッテルを貼る」方法は相手を弱らせ、第三者には印象操作で取り込むことができるので、いろいろな場でよく使われているように感じる手法です。いうまでもなく、これは「ワ」が乱れていて、不健全で、全くおすすめできません。

人は、何かを強く主張したり、断言する人を「信用できる人」と思いがちです。「はっきりと自己主張し、何かを断言しながら、何かに対してレッテルを貼って誰かを蔑んでいる人」を安易に信じてしまう人がとても多いと「ワ」では危機感を感じています。

「伝えたいことは何か」「なぜそれを伝えようとするのか」をしっかり発言すれば、わざわざレッテルなどを貼って相手を貶める必要はありません。レッテルなど貼らず正々堂々と意見を発信すれば良いだけです。【例:選手宣誓】

「噂を広める」という見せ方

確実な情報でなくても、真実の情報のように見せている発信者がいる、と「ワ」は感じています。

これは、【言ったもん勝ち】のようなもので、『受け手の感情』に働きかけるような感情的なものが多いです。

『ひどい!』とか『危険!』などとという気持ちが『拡散!!拡散!!早く皆に伝えないと!』という気持ちになり、情報がものすごい速さで広がっていきます。

本当の情報ならありがたいことです。しかし、それが偽りの情報だとしたら、あとから『間違えました!』と訂正されても手遅れです。不思議なことに「情報を訂正するための情報」の伝達速度はそこまで早くはありません。

噂を広めて印象操作をすれば、意図的に多くの人をつくることができてしまいます。本当の情報を判断する術を知ってほしいなと思っています。【例:多数が正しいとは限らない・真偽を見抜く方法・他】

「視点を変える」という見せ方

あなたは、真実という「本当のこと」を信じますか?
それとも、真実に見える「嘘・偽り」を信じますか?

視点が違えば見え方は全く異なります。その人その人それぞれで視点が異なり、意識しなければ『自分の感じるまま』に物事を観ます(良いか悪いか、正しいか誤りかは別として)。

これを、他者から「真実を教えます!」「闇を暴露!」「だまされるな!」などの理由で、視点を変える見方を提案されると、視点(見え方)が変わり、モノの見方が変わることがあります。

『視座を変える(高めたり低めたりする)ことで、全体を知り、自分自身で判断ができるようになった』なら良いのですが、『視野を狭め、無理のある理由を並べられ、さも真実のように語られたことを真実だと信じた』なら、それは、考える力や判断する力を失っていることになり、とても危険なことです。【例:プロパガンダ・学力や知識力他】

「嘘を100回言えば真実になる」という人がいるくらい、間違ったことでも何度も聞き続けたり、皆がその嘘を平然と本当のことだと発信し、それらを受け取り続けていれば、それは「真実」という仮面をかぶったまま広がり続けてしまうのです。

なにが本当でなにが嘘なのか、外側に答えを求めてもわからないかもしれません。一人でも多くの人が、『自分の心の中の考える力』『判断基準』『判別する力』を養ってほしいなと思っています。【例:判断する方法・他】

「教育」「学び」という見せ方

多くの人をつくるために、「教育」や「学び」が使われることがあると「ワ」では考えています。

学校の教育だけが教育ではありません。家庭内での教育、社会的な教育、会社内での教育などたくさんありますが、教える側の「教える」という行為だけではなく、誰かが『学ぼう』『知識を得たい』と考えたとき、その教えを請うという行為も教育となります。【例:学力や知識力・情報の取捨選択】

この教育を悪用すれば、簡単な言葉で言えば「多くの人を洗脳する」ことができてしまいます。洗脳という怖ろしげなことでなくても、【印象付け】や【人気作り】などでも、多くの人を作り出してしまうことができるだろう、と考えられます。

「演出」という見せ方

民主主義は「多い方の数」で物事を決定する方法です。通常「少数」の意見は採用されません。しかし、これを「多数の意見だと演出する」ことができてしまうと懸念しています。

「これは多数の意見である」という演出ができてしまうと、本来通るはずのない「何か」が決まってしまうのです。いわゆる「答えありきの出来レース」です。【例:ゴールが決まっている】

「結果が決まっている」「方向性が決まっている」などがあり、どうしても、ある方向へ決めなければならない(通常の民主主義では本来あってはならないと思いますが)が、少数意見を多数意見だと演出して、決定してしまいます。【例:再生数・不安提起という手法・イメージ作り】

これは本当に危険なことです。

[2]「数」の操作

民主主義は「数(かず)」で決まります。ですから、「数(かず)」を意図的に操作し、「多くの人」をつくれば、流れを変えることができてしまいます。

「多い」は真実?「多い」は正義?

流行っているもの(皆が信用しているもの)、人気のあるものが真実だと思っていませんか?

流行やトレンド、人気などはつくり出すことができます。ファッションや話題の映画、アイドルなどが良い例かもしれません。広告でイメージをつくり、「皆が大好き」「いま巷で人気な」などの言葉と映像で、私たちに魅力的なこととして魅せてくれます。

しかし、民主主義をこれらと同じように考えるのは危険です。ファッションに正解不正解はありませんが、世論的な情報の場合は、いくら流行っていても『間違っている情報が過熱して流行っているだけかもしれない』と、一歩引いて全体を見る必要があると感じるのです。【例:言ったもん勝ち・プロパガンダ他】

民主主義の根幹である「多くの人」を「流行や人気」で作られることはとても危険なことだと「ワ」では考えています。

選挙で投票する根拠は?

あなたが選挙で投票する根拠はなんですか?好きな人や感じのいい人を選びますか?

ある人が言っていました。「選挙は人気投票だ」と。私は、この言葉を聞いて『ん?なにか変だぞ?』と、とても引っかかりました。もしかしたら本当に「選挙は人気投票」なのかもしれません。しかし「ワ」では、人気投票で選挙することは、民主主義の「ワを乱す」と考えています。

選挙は国などを運営する人(国民を代表して国などを治める人=国民の代表者)を選ぶ行為です。「ワ」では「選挙は信頼で選ぶ」または、「政治を託す人を選ぶ」「有言実行者を選ぶ」ことであり、好きとか嫌いなどの感情で選ぶものではないと考えています。

極端な例では、たとえプライベートでは(個人的には)苦手だと思う人であっても、「自己の利益を顧みず、国民の代表者として、国や国民のために実行できる信頼できる人」ならば選ぶ必要があると考えているのです。【例:間接民主主義の条件・選手宣誓】

「再生数」や「閲覧数」で判断してませんか?

あなたの信頼する根拠。それは再生数や閲覧数などの「数」を基準としてはいませんか?

「ワ」を視点としてみると、再生数や閲覧数が多い動画やウェプサイトなどを『人気が高い』とみなして『信用できる情報』だと多くの人が捉えているように感じています。しかし、実際は「数」が多くてもそれが真実とは限りません。【例:多数が正しいとは限らない・「皆が」という見せ方・他】

それらは、「お金を稼ぐため」や「多くの人を作るため」にわざと「数を稼ぐ」モノを作成している可能性があり、『皆に客観的な事実を伝える』ことを目的としていないことが往々にしてあるのです。

民主主義の「多くの人」を「閲覧数や再生数」で作られることはとても危険だと「ワ」では考えています。

安心・不安・炎上という手法

再生数や閲覧数を増やすために「不安を煽る」「恐怖を植え付ける」「いい事をいう」などで感情に訴えかける動画などは「数」を稼ぎやすいようです。ときに「喧嘩のような難癖をつけて、互いにやり合って」いたり、わざわざ炎上するような発言をして、再生数や閲覧数をのばしたりしているものも見かけます。

または、最初に「不安や恐怖の情報」を流して閲覧者の不安や恐怖心を増長させ、その後「安心材料」や「解消手段」を流すものもみられます。これは、不安や恐怖を煽ることで再生数を増やし、その後、安心させることでその情報源を信じて依存する人を増やすような2段階の心理作戦と考えることができます。

これらの場合は、情報を単なる「情報源」としてではなく、依存する対象、すなわち「信用する人(信者)」を作り出すための行為です。「依存する人・信用する人」が増えれば再生数なども同時に増え、結果「多くの人」も増えていきます。

これは宗教の話と特定するものではありません。心理的な『依存してすがりたくなる』という意味です。このようになってしまうと、信じる者は『自分で考える』という行為を捨て、自分で情報を取捨選択したり、『ん?なんか変だぞ?』と気づいたり、真偽を確認する作業を怠ります。すべて「信用する人」が言うことを100%信用し、自分で考えなくなるのです。【例:ゆでガエル・】

不安なときは依存心が強まる傾向があるので、誰でも『信じて安心したい』と思うのは自然の気持ちかもしれません。しかし、その心理を利用してわざと「恐怖」を提起するのは「ワ」を乱す行為でしかありません。

ちなみに、不安や恐怖を煽ったりせず「情報を客観的事実として伝え、多視点からの解釈を発信している」ような人は、 『判断は各自で考えてほしい』と結論を誘導したり、強要したりしないため、再生数や閲覧数はなかなか増えないように見受けられますが、とても大切な考え方です。【例:自分も周りも皆が大切】

多数決

「50人」対「49人」だったので、「50人の意見」で採決されました。

これが現在行われている民主主義のようです。多数決は、多くても「過半数の○○」ということで、半数が基準です。ほぼ同じ人数だったとしても、1人でも多い方の意見で物事が決まっていきます。

多数決は危険な採決方法になり得ると「ワ」では考えます。「多くの人」を意図的に作り出すことができ、そして、ほぼ同数(同割合)であっても一人でも多ければ、その多い方で決まってしまうのです。【例:見え方の操作・】

「多くの人」が意図的に作られていない状況なら良いかもしれません。しかし、「多くの人を意図的に作る」環境で、ある一時の多数決では、本当にそれで「民主主義」での結論がでたのかとても怪しいところです。

一週間先に多数決をとったら、別の結果になるかもしれません。約半数の人が異なる意見をもっているということは、話し合いの結論を出すのは「まだ早い」のではなかったのでしょうか。議論の余地がまだ残っている可能性があるということです。

では、「単純な多数決ではなく”70%以上の賛成”などと割合を決めればよいのか」と言えば、それはそれで「多くの人を作るための様々な操作が行われる」ため、懸念が残ります。

ですから「多くの人を作るための操作」に踊らされずに、民主主義をしっかりと行う人々の意識が必要だと「ワ」では強く感じています。【例:ワが整う民主主義・選手宣誓・他】

[3]「印象」心や気持ちの操作

印象を操作されることによって心や気持ちが変わり、その結果、自身の回答まで変わってしまうことがあります。逆の視点でいうと、印象を操作すれば、「多くの人々」の答えを変えることができてしまう、ということです。

プロパガンダ

あなたが信用している情報源。それはプロパガンダではないですか?

プロパガンダについては、敢えて具体例を挙げる必要がないと思うので省略します。自身では気づいていなくても、知らないうちに「何か」に先導されているかもしれません。「不安」や「恐怖」をはじめ、「思想」や「感情」に揺さぶりをかけられられているかもしれない。という危機感を常に持ってほしいなと感じています。【例:見え方や見せ方の操作・数の操作・印象の操作・力の操作・感情の操作など】

ゆでガエル

将来を懸念する人に対して『未来の不安に心を囚われないで。今を見て』などと伝えているのをよく見かけます。「今は平和です」「今現在、危機はありません」など、過去でも未来でもなく「今」に焦点が当てられます。

しかし、『危機的状態などの急激な変化が起こる可能性が高い』と仮定した場合、少しでも早く気づいて『対処できることをする』方が、未来の安心や安全が保たれるのは言うまでもありません。「もしかしたら、“対処できない状態にする”(ゆでガエルにする)ことが目的かもしれない」という危機感を一度は考えていただきたいと「ワ」では感じています。

「カエル」ははじめ、水に気持ちよく浸かっていたけれど、やがてその水はぬるま湯となり、熱湯となって、とうとう「カエル」は「ゆでガエル」になってしまいます。水温が少しずつ上がっていったため、茹だってしまうことに気づかなかったからです。

『気づかないようにする』『見えないふりをする』『知らないふりをする』など、「今」だけを見れば安心できるかもしれません。いつもと変わらない生活を送ることができるでしょう。しかし、「ゆでガエル」のように、少しずつ変化が起きていて、『命を脅かす危険な状況に気づいていない状態』なだけかもしれないのです。

また、少しだけ視点を変えてみると、「今」いつもと変わらない生活をしているのは、あなたとあなたの周りの人だけかもしれません。少し視野を広げれば、すでに、その危機の中で生活している先人がいる可能性もあります。

数カ月後、数年後にその危機が自分に降り掛かったときには、「危機的状況」ではなく「危険な状況」に陥っている可能性が高くなります。

今(だけ)はとりあえず安心できるかもしれません。しかし、そのまま「無いこと」にしていたり、無関心のままで危機的状況を無視して生きた結果、気づいたら逃げられない状況となり、ゆでガエルになってしまい、なにもできなくなってしまうかもしれない、ということに少しだけ心を寄せてほしいなと思っています。

イメージ作り

選挙のときに聞いたことのある言葉です。『優しそうだから投票した』『誠実そうだから』『日本を持ってくれそうだから』と。

『自分は人を見る目がある』『悪い人くらい見抜ける』『良い人だと分かる』誰もがそう思っていますが、本当に見抜けているなら「人間関係のトラブル」などは起こりようがありません。私たちは判断が脆い中で日々選択しながら生きています。

人は、第一印象でその人を判断してしまうことが多いようです。それは、写真や動画などで、笑顔を振りまいたり、人との関わりの様子を写したり、または、しっかりと主張している姿を見せたり、見せたい姿を演出することで、イメージ操作ができてしまうということです。

あなたの信じるその人は、『羊の皮をかぶった狼』かもしれません。または、『狼の皮をかぶった羊』かもしれません。「誰の、どんな部分を見せられているのか」を客観的かつ冷静に判断できなければ、作られたイメージのとおりに受け入れてしまいます。これは民主主義にとって大変危険な状況です。【例:代表性民主主義】

また、「少数意見」を「多数の意見」だと認識させるためのイメージ操作もあるように感じています。そのような場合は、特に、感情を込めて抑揚をつけた話し方をしたり、はっきりと落ち着いた話し方をしたり、にこやかに、時には真面目で深刻な顔で、など、話す人のイメージを「信用できる人」として「多数の意見です」と言い切ります。

しかし、話をよく聞いていると(もしくは、読んでいると)、ところどころに『あれ?これって?』『冒頭で話していたことと今話していることが違う』『視点がコロコロ変わるので言っていることの意味がわからない』など、理解できなくなることも多いです。少しの嘘を織り交ぜながら、多数意見がさも真実のように話(ストーリー)を作り上げています。【例:視点を変える見せ方】

このような話は、聞き流しているだけでは気づくことはできません。「雰囲気」で意味を感じ取ってしまうからです。「言葉」「表現」「てにおは」までの意味をしっかり聞き取り(読み取り)、わからない言葉は調べるなどしてしっかりと解釈してほしいと感じています。【例:真偽を見抜く方法】

「言ったもん勝ち」と「言ってみた」

これは、【噂を広める】にも通じますが、例えば政治を扱うような動画で、個人的な感想を「事実のように言ってみただけ」と感じるものが意外に多いと感じています。

それらの動画などは、根拠となる考えや資料などを示すことなく、感情に訴えたり、もしくは、話を脚色したり、大げさに表現するなどして、本来とは別の解釈になるように話を作り出しています。

不思議なもので、そのような人たちは話がとても上手です。抑揚をつけたり、笑顔や真面目な顔を使い分けて神妙さを演出したり、しっかりと話を聞いていなければ、話の矛盾やこじつけに気づくことができません。

このような安易な情報源で、多くの人が流されてそれを信じ、また、その事実が脚色されて拡散される。そのままそれが広がり、「多くの人々」となる。これは、民主主義において、とても危険なことです。

「〇〇派」とか「親〇〇」とか「対〇〇」とか

○○派ってなに?と質問されたら、あなたは答えることができますか?

【レッテル貼り】にも通じますが、例えば「右派」「左派」などで人の思想のすべてを決めつけ、印象操作をしているのをよく見聞きします。【右派や左派の記事は後日執筆予定です。】

客観的によく聞いてみると、ただ「叩いているだけ」だと分かるのですが、それが『叩きたい仲間同士』の集まりでは同調が増長し、悪口、蔑みなど貶めるような話で盛り上がり、拡散されています。これは、とても危険な兆候です。そこまでして「多くの人」を増やしたいということなのでしょうか。その先に待っているものは「何」か、分かっていて人を貶めるようなことをしているのでしょうか。

おそらく、人気を得るためだったり、お金を稼ぐためというのが多いのでしょう。そして、叩いていると自身が優位に立っているような気分になるので、優越感に浸れるのでしょうか。「ワ」では全く理解のできない考え方であり、「ワを乱す」ことになんのメリットもないと考えています。

また、「〇〇派」と同じように「親〇〇」や「反〇〇」などの印象操作も多いです。

「親○○だから悪!」、「反○○だから正義!」のような単純な定義付けだけで物事を解釈し、判断しています。本当にそうだと言い切れるほど、例えばその「国」のことを知っているのでしょうか?【例:知識を得る方法】

「親日だから△△」も同じです。私たちは、流れてきたニュースや各自が取得する個別の情報で物事を判断するため、多くの人が「あの国は親日」といえば、『あ〜そうなのね。日本に親切な国なのね』と解釈します。「親しみ」において言われるなら悪い気はしないためトラブルにはなりにくいかもしれませんが、逆に多くの人が「あの国は反日(嫌日)」と言われたら、多くの人がその国に対して『嫌悪感』を抱くのではないでしょうか。

『なぜ日本のことを悪く言うのか』『なぜ日本が嫌いなのか』を当人から聞いて判断する必要性を感じます。誰かが言った言葉を誰かが解釈して言うのではなく、「当事者から直接聞いた情報を」です。【例:伝言ゲーム・一次情報】

相手の主張の全てを真実とする必要はありませんが、個人間の人間関係と同じく、自分の気持ち(主張)と同様、相手にも気持ち(主張)があるという「ワの心」を互いに持たなければ、争いが生じてしまいます。争いは「ワ」を乱すため話し合わなければなりませんし、このような手法で「多くの人」を増やしてはならないと「ワ」では考えています。

[4]「力」の操作

「多くの人々」の中には「力(ちから)」に弱い人がいます。財力、権力、学力・・・などです。それらの「力」を持つ人の意見や考え方で、回答や思考、思想までもが変わってしまうことがあります。

それらの「力」を利用することで「多くの人」が作り出されることがあります。大勢という多数への影響力も「力」そのものかもしれません。

同調圧力

自分の意見が周りの意見と異なるとき、自分の意見を言えなくなったり、自分らしい行動を起こせなくなったりすることがあります。

これは、実際の会議などの場でなくても、複数人での人間関係でも起こることです。実際に会っていなくても、例えば動画やニュースなどのコメントでさえ、多くの「応援意見」や多くの「批判意見」で『皆はこう思っているんだ…自分は違うけど…』と、無意識に空気を読んでしまい、自分の考え方に自身が持てなくなって、自身の考え方を発言したり、行動したりできなくなり、自分の思想自体がコメントに流されてしまうのです。

これらの大衆心理は、多くの人を意図的につくり出すことができ、さらに、別の考え方をする人に対して無言の圧力を与えて、思想を変えさせてしまうとても危険性のあるものだと「ワ」では考えています。  

マウント

動画やニュースなどの「記事内容そのもの」や「配信者の言動」「コメント」などで気になるのは「マウント」です。

マウントを取ることで、自分を優位のある立場に置き、相手を蔑んだり、見下すような言動で相手の自信を失わせ判断力を奪います。そして、「この意見が絶対的に正しい!」と主張することで「多くの人」を作り出します。【例:○○派・学力や知識力】

マウントをとられた側は、自分に自信がなくなったり、自分を卑下する傾向があり、自分の判断に自信が持てなくなる心理が働きやすくなります。そのような心理状態のとき、『強そうな人が言い切る(断言する)こと』が正しいと信じ込んでしまうのです。これは、人間の心理的にもとても危険なことで、抜け出すことが難しくなってしまうこともあります。

学力、知識力

学歴が高い人や専門家などの知識の高い人の言うことを信じる傾向のある人がいます。豊富な知識があるため『正しいことを言っている』と受け取るためです。

しかし、『専門以外のすべての事象で完全な答えを持っているか』と問えば、答えは『NO』だと言わざるを得ません。「証明された事実」をベースにすれば『正しいこと』といえるかもしれません。しかし、「証明されていない事実」をさも『証明した』ように説明している学識者でさえいるように感じ、その説明が「多くの人」を増やすことに寄与していると「ワ」では考えています。【例:教育や学びという見せ方・一次情報】

例えば数学でいうところの「数式」は絶対です。数式の答えは「正しい」か「間違い」かしかありません。しかし、歴史を見てみると、鎌倉幕府の成立を、かつては「イイクニ作ろう(1192年)」と覚えたものですが、近年では「鎌倉幕府の成立は1185年と見られる」とされているようです。

鎌倉幕府の成立が1192年とされていたときに、『鎌倉幕府は本当は1185年に成立した』と主張しても話は通らず「間違ったこと」「嘘を言っている」と言われたことでしょう。しかし今なら「正しいことを言っている」となんの疑いも持たずに受け取られます。「正しい」と「間違い」の概念を歴史に当てはめるのは無理があるかもしれませんが、どちらの考え方もその時の歴史の専門家(歴史学)が「正解」としているのです。違いは「どちらの視点で見ているか」だけです。

また、少しだけ視点を変えて別の例を挙げると、「専門家」が解説する「安全性」や「危険性」などについても同じです。そのときに「安全」と思われていたことが、数年後、数十年後に『危険性が確認されました』ということはざらにあります(敢えて具体例は出しません)。

このようなことから、彼らが発する言葉が「絶対に正しい」とは言い切れないのです。ですから、学識者の発言であってもそれを「鵜呑み」にせず、意味を知り、直感を鍛えて学力や知識力の圧に押しつぶされずに、少しでも理解できない説明などがあれば『あれ?』と気付き、自分で少し調べてみてほしいなと感じています(もちろん、学識者から学ぶことはたくさんあることは言うまでもありません)。

政党や組織

政党や組織が「力(ちから)」といえるのかは考え方によるかもしれませんが、同じ考えを持つ集団(団体)という意味としては大きな力だと「ワ」では考えます。

大抵の場合、その政党や組織には規則があるため、個人が組織に属する場合は、逆らったり、異なる意見を言うことは(暗黙的に)できません。もし、その組織にそぐわないとされた場合には、その組織から退かなければならない状態に追い込まれることもあります。

このようなことから、政党や組織など大きな団体(集団)の言うことは『絶対』のような心理が働き、同調したり、屈したりと表現されるような服従のような力関係が生じると考えています。【例:出る杭は打たれる・疎外感・踏み絵・同調圧力・他】

[5]「感情」の操作

個人の感情を操作されることによって、自分の考えを表に出せなくなったり、回答が変わってしまうことがあります。

ホームとアウェイ

例えばスポーツ観戦です。「ホームチーム」を応援する場合は「ホーム席」、対戦相手の「アウェイ(ビジター)チーム」を応援する場合は「アウェイ(ビジター)席」で観戦するのではないでしょうか。

「ホーム席」は、ホームチームを応援する人ばかりです。もし、『アウェイ(ビジター)チームを応援する人』が間違えてホーム席についてしまったた場合には、「ホーム席」で「アウェイ(ビジター)チーム」を応援するのは感情的に難しいことでしょう。

「アウェイ(ビジター)席」にホームチームを応援する人が間違えて座った場合も同じです。

「多くの人」が一つの考えを持つまとまりの場合、「少数」の別の考えを持つ人の意見は、場違いだとして発言できなかったり、無視されたりします。これを上記の「参加者(2)」や「回答者(3)」などに置き換えてみてください。「民主主義をどこで行うか」によって、答えも方向性も変わってしまうのがイメージできると思います。【例:参加者・回答者・疎外感・同調圧力】

疎外感

人は、「疎外感」をもつと孤独を感じるため、できるだけ「疎外感」につながるであろう言動を避けようとします。その心理を利用して「多くの人」を作り出していることがあると「ワ」では感じています。

周りと合わそうとしたり、自分の考えを抑圧したりして、できるだけ周りと同調しようとするのです。

自己を守るための本能ともいえるため、この感覚自体をなくすことは難しいかもしれません。しかし、この「感情」を利用してわざと疎外感を生むように仕向けられることがあリます。

『相手にされない』『無視される』『マウントを取られる』など、意図的に疎外感を感じるように仕向けられると、どうしても自身の主義主張を発言することができなくなります。そしてモヤモヤを抱えながらも「多くの人」に同調していきます。結果、「多くの人」が増えていくのです。【例:同調圧力・マウント】

これは、民主主義の「ワ」が乱れている状態です。

踏み絵

踏み絵も「多くの人」を作るのに使われていると「ワ」では考えています。何か「悪い」とするものを作り、それを『踏める』か『踏めないか』でその人の思想をはかります。

「悪い」とするものは本当の悪ではなく、この場合では「少数の思想」のことが多いです。少数の思想の中には「核心をついているもの」や「真偽の根拠を示すもの」など、民主主義の正常な判断ができる材料となるものが多く含まれているように感じますが、それらがまだ「少数」のうちに『それは悪です』と決めつけ、レッテル(ラベル)を貼られて「1つの思想」という絵にされてしまいます。【例:レッテル貼り】

多くの人は、『大勢が信じているから正しい』と思いこんでいるため、「悪」というラベルを貼られた思想は『排除すべき危険な思想』となり、それらを踏めない人は『危険な思想の持ち主』となるため、多くの人が『その絵』を踏もうとします。これは、この踏み絵を踏ませることで「多くの人」を証明し、増やしている可能性もあると「ワ」では危惧しています。【例:多いは真実?・〇〇派・】

『排除されるから目立たないようにしよう』という人が増えてしまうのは残念でなりません。

出る杭は打たれる

『皆のために良いことをしよう!』と思って熱心に表にでて活動していた人が、突然、『活動をやめました』と影に隠れてしまうことがあります。

具体的には「公明正大な人」「誠実な人」「全体が良くなる意見を言う人」「影響力のある人」など、『「多くの人」を操作したい側の人たちにとって不都合な人』です。

踏み絵と同じように、まだ「少数」のうちに、出る杭を打っておかないと、「少数」が「多数」になってしまえば世論が逆転するので慌てて打っているのです。これは「多くの人」を増やすことを目的とするのではなく、「少数」が「多くの人」に発展する前に『芽をつんでおこう(潰そう)』としているのです。【例:踏み絵】

もちろん、これは「ワ」を乱す行為ですが、『打たれるから目立たないようにしよう』という人が増えてしまうのは残念でなりません。

初動の言動

初めて報じられるニュースがあると、何かしらの情報がすぐに、続けて出ることがあります。大抵の場合、それらは感情に訴えることが多いように感じています。人は、第一印象が記憶に強く残るため、印象づける場合にはこの「初動の言動」が操作されることが多いと「ワ」では考えています。

もちろん、それがすべてではありません。また、逆に続報として「何も報じない」ということもありえます。私たちは、報じられた順序や、自分が見た順序で出来事を組み立てて解釈するため、この報じられる内容や順序で感情も変わってしまうのです。

その情報は、意図的なものか、それとも客観的事実のみか、脚色や見解などの主観が入ってはいないか。また、分からない人への解説に不安や恐怖をまぜて解説していないのか、など、初動の言動には特に慎重になってほしいと「ワ」では考えています。【例:伝言ゲーム・プロパガンダ・ゆでガエル・言ったもん勝ち】

[6]情報源

情報をどこから入手するかによって、自分の考えが変わったり、客観的事実に基づいた判断ができなくなることがあります。

多くの人が客観的事実に基づいた判断ができなくなれば、「多くの人」の意見がおかしな方向へ変わってしまう危険性があります。

情報の取捨選択

現在、情報は様々な媒体から入手することができます。テレビ、新聞をはじめ、インターネットでそれぞれが情報を検索することも可能です。

その情報に「何」を求めるかは人それぞれです。「客観的事実」を求める人もいれば、「自分の正しさを証明するための情報」を求める人もいます。「知識」を求める人や「答え」を求める人もいます。

また、「どのように」求めるかも人それぞれです。「楽ラク」に求めたい人もいれば、「探求」して深く真相を求めたい人もいます。時間をかけずに「即回答」を求める人もいれば、時間をかけても「心から納得したい」と考える人もいます。

最終的な判断としての「答え」を自身の外側に求める人もいますし、内側にその「答え」を求めるともいます。

このようなことから、情報を取捨選択すると言っても、ひとそれぞれ、受け取る情報は様々です。そこで、今まで記してきたような「多くの人」を作るための様々な操作が行われている可能性があると「ワ」では考えています。【例:多数が正しいとは限らない・一次情報・真偽を見抜く方法】

伝言ゲーム

何かの情報を得るとき、その情報は「根拠や考え方などがきちんと示されているか」「誰から(どこから)得た情報か」を知ることが大切です。

伝言ゲームが良い例です。『最初に伝えられる文章』と最後の人が『受け取った文章』はほとんどと言ってよいほど異なっています。それは、その伝える文章を『一語一句覚えていられない』からです。

一語一句覚えていられないけれど、『意味は正しく受け取っている』と誰でもが思っています。『正しいと思っている事』を「自分の言葉に変換」し、自分の表現で次の人に伝えます。次の人も文章や言葉そのものではなく『自分が解釈した事』を次の人に伝えます。【例:噂を広める・】

「文章や言葉」をそのまま伝えるのではなく、『感じたことやその解釈』を伝えているため、どんどん「正解」から離れていきます。

価値観や思想が違うので『受け取り方が異なる』のは当たり前ですが、これが、「受け取った情報」を「発信者として発信する」となれば、伝言ゲームのはじまり、または伝言ゲームの参加者になります。

しかも、伝言ゲームは、責任の所在も不明瞭です。『皆が言っている』のような感覚的、感情的な内容で、噂ともいえるような情報が「真実の!」とか「真相は!」「嘘を暴け!」などの力強い言葉で発信されているのです。【例:一次情報】

「多くの人」を作り出したい人たちにとっては、これほど使い勝手の良いゲームはないのだと思います。「ワ」では、これはとても危険なことだと考えていて、一人でも多くの人の気づいてほしいと願っています。

ワが成立した「民主主義」と「正しい判断」の方法

ここからは「ワ」が考える「ワの成立した民主主義」を書いてみたいと思います。読む人によっては、『非現実的』とか『理想論だ』と批判的な意見が出るかもしれませんが、あくまでも「ワが整う民主主義の条件とは?」という視点で記すだけなので、問題提起くらいの気持ちで読むとよいかもしれません。

ワが成立する一定の条件とは?

「ワ」が成立する民主主義には、一定の条件があると「ワ」では考えています。「ワが成立する民主主義」という観点で書いてみます。

「多くの人」をすべての人々(総数(1))とすること

ワが成立する民主主義の第一の条件は、「多くの人」の定義を「総数(1)」とすることです。

「ワ」は、すべてが「ワ」となり、その「ワ」が「マル」「球体」「螺旋」に発展するような考え方です。一部の利益、一部の得、誰かの努力、誰かの犠牲などで成り立つ考えではありません。ですから、「参加者(2)」のような考え方は「ワを乱す」ことに通じるため「すべての人の意思(総数(1))」を基本として、議論をすすめます。

現実的に考えると「全員の意見を取り入れて議論を進める」ことは困難かもしれません。しかしながら、現状の民主主義を見ていると、「国民の意見が反映されず」「ワが乱れすぎて」いて、「答え(結論)を出すのが早すぎる」と感じています。『まだまだ議論の余地があるだろう』と思えても、なぜか結論を急いでいることも多く、透明性が全くありません。「国民の知る権利」さえが蔑ろにされているのは「ワの乱れが加速している」と言わざるを得ません。

皆が「ワ」を大切に生活していること

ワが成立する民主主義の第二の条件は、皆が「”ワ”を大切に生活していること」です。「ワ」の視点で世の中を見ると、近年、【個人主義】を通り過ぎて「利己主義」の人がとても多くなったように感じています。

日本には日本国憲法があり、一人ひとりが大切にされて人権が守られていますが、それが度を越して「利己主義」に陥ってしまえば、ワの成立した民主主義は成り立ちません。皆がそれぞれ『自分の利益』を最優先した場合、搾取、騙し合いなどの争いが生じることは容易に想像できます。

そして【民主主義の懸念点】の様々な例のように、強い人や支配する者たちが「多くの人」を意図的につくり出し、「民主主義」に仕立て上げて、「強者の利益」になるように物事が決められ、進められていく可能性を生じるのです。

皆が、「ワ」を大切にするからこそ、皆の意見が皆のために活用され、同時に自分にも活き、全体がみ「ワ」で整い、「民主主義」という「皆の意見で決めること」が機能します。

皆の意見が「直接反映される」こと(本来の直接民主主義)

第三は、【直接的な民主主義】を基本とすることです。「YES・NO」形式ではなく、「皆の意見や意思を直接聞く」民主主義です。すべての人類の意見を聞くことは簡単なことではありません。しかし、本来は、そんなに簡単に皆の属する団体(例えば国)を変えてはならないと「ワ」では考えています。(「ワ」で行う直接民主主義の方法の記載は長くなりすぎるため省略します)

たいてい、(歴史的に見ても)何かが大きく変わる時は「強い力」が働いているように思いますが、「民主主義」と「強い力」は相反するのではないでしょうか。

変えようと思うときには議論に議論を重ね、「変えることで『有利になる人』と『不利になる人』」を予見し、「『不利になる人』が出る」ような議案の場合には調整をしたり、別の方法を考えたりして「皆の利益」になるようなものにする必要があります。いわゆる「ワが整う」ものです。「ワ」が整えば皆が安心して暮らせます。

間接民主主義でおこなう場合の絶対条件

仮に「間接的な民主主義」を取り入れる場合には、皆から選ばれる代表者は「必ず『ワ』の人」であるべきです。「ワ」の人でなければ、「どこかの、または、誰かの利益にはなるが、それ以外の人の不利益になる」ような決まりが【様々な操作】によって執り行われるようになり、結果として「独裁的」に物事が進んでしまいます。「独裁」は「民主主義」と反対の決め方です(独裁主義)。【民主主義とは?】

このように、なにかの意図を持って「多数」を作り上げてしまえば、しっかりと自分をもち、自分を律する人でない限り、その「多数」に流されたり、その多数があたかも「正解」であるように思ってしまったり、と正常な判断ができなくなる可能性があるのです。これはとても危険な状況です。

選手宣誓

スポーツでは、開幕時に選手宣誓が行われます。私の記憶だと以下のようになります。
「宣誓!我々はスポーツマンシップに則り、正々堂々と戦うことを誓います。選手代表○○○○」

間接民主主義を行う場合は、選ばれた国会議員さんそれぞれに、
「宣誓!我々は日本国憲法に則り、正々堂々と議論することを誓います。国民代表○○○○」
と国民の前で誓ってほしいものです。

そして、私たち日本国民も
「宣誓!我々は日本国憲法に則り、正々堂々と自分の意見や意思を発言することを誓います。国民の一人○○○○」

と、日本国においての「民主主義」が、日本国憲法に則って、正常に機能してほしいと願ってやみません。

多数が正しいとは限らない

【懸念事項】で様々な例を挙げたように「多くの人」はつくり出すことができるため、「多数意見が正しいとは限らない」ことが分かります。

もちろん、多数が正しいことはあります。しかし、少数意見が正しいこともあるのです。もし、少数意見のほうが正しい(もしくは、自分の意見と「同じ」とか「似ている」)と知ったなら、長いものに巻かれず、民主主義が正常に機能するように『自身の意見・希望』をしっかりと持ち、「選挙」や「それ以外の方法」で行動していただきたい、そう思っています。

(ワは政治団体ではありませんが、仲間を募集中です。一人で行動するのは心細いときは、ぜひワの会で一緒にワを楽しみましょう)

知識(情報)と判断基準、真偽の見抜き方

ここまでは、【民主主義の意味】、【課題や懸念点】、【ワが成立した「民主主義」の条件】などを書いてきましたが、まだ終わりません。もう少しだけ続きます。

現在、私たちは日本という国で「日本国民」として生活しています。日本国憲法の全文と第1条には【国民主権】が記されています。これは、「私たちは民主主義の国で生きている」ということです。ですから「国の未来を決める」のは私たち日本国民です。政治家は私たちの代表者でしかありません。私たちひとりひとりの「未来像」「考え」「意見」「意思」などをしっかりともち、伝えていく必要があります。

今の日本を安心して暮らせるように守り、そして、未来の安心と安全な日本へと続いていくように、知識を得て真偽を見抜き、判断してく方法について、最後に「ワ」の視点から書いてみたいと思います。

知識(情報)を得る方法

「民主主義」を健全に運営していくためには、私たち日本国民が正しい知識をもち、しっかりと判断する必要があると「ワ」では考えています。しかし、この知識と判断基準がとても危ういものになってきていると、危険視しています。

情報が非常に多い昨今、知識を得るための選択肢も多く、いろいろな手段を選ぶことが可能です。学校で学ぶ他にも、新聞、テレビ、ラジオなどの他、ウェブサイト、SNS、口コミなどからも知識を得ることができます。

そして、その「知識」となる情報は、「誰から学んでも同じもの」とは限りません。教える人の思想や解釈、信じている仮説などによっても、知識は変わります。また、専門的な情報(学問)でも、その情報が「時代遅れ」だったり「間違い」ということもあるのです。【例:学力などの力・プロパガンダ・他】

学力知識力などを付けるため「決まりや法則」などを覚えるだけの場合、「自由な考え」が狭まれ、結果応用が効かなくなったり、直感力が鈍ったりすることがあります。

ですから、「知識」を入手して安心して覚えるだけでなく、その知識を『自己の知識として採り入れるか否か』を選択する必要があります。

① 幅広い情報や、多くの意見を収集する

まずは、幅広く情報を収集します。インターネット検索をするなら、1つ2つを読むだけではなく、10サイトくらい読んでみてください。『熟読』でなくて構いません。すると、全く別の見解があったり、見解に偏りが見られたりするのに気づきます。

動画やニュースなどのコメントの場合も、表示順位を変えてできるだけ多くのコメントを読んでみると、『自分の状況を書いている人』『ただ悪く言いたいだけの人』『考察する人』『解説する人』『感謝する人』『持ち上げる人』など、様々です。できるだけ自身の感情を入れずに情報だけを入手するようにします。すると、『コメントに偏り』があったり、『コメント文章の書き方に共通点』を見出したり、『「多くの人」が作られているなぁ』と感じたり『ん?これはもしかして??』など、何かに気づいたりすることがあります。

自分の価値観に合わない情報を視聴することは、ときに抵抗感を感じることがあるかもしれませんが、『心地よさ』だけで取捨選択してしまうと『自分好みの』偏った情報しかに入手することができません。趣味ならそれで良いのですが、「民主主義」で政治的判断をする場合には、『自分の心地よさ』は一旦脇に置き、幅広く入手することが必要です。

今まで気づかなかった視点の情報が入手できたり、もしかしたら自身の思想に確信を持てたり、自身の考え方の矛盾に気づくことがあるかもしれません。

自身の内側の判断材料となるため、幅広い情報を得て、多くの意見を見聞きすることが大切だと「ワ」では考えています。

② 混乱したら、しばらくそのままにしてOK

幅広い情報を得ると、自身の中で『訳が分からなくなった!!』と混乱を引き起こすことがあります。そのくらい様々な主義主張、価値観があります。

混乱したり、面倒に感じることを避けるため、簡単で人気のある情報源だけを選びたくなりますが、未来の日本のこと、自分自身の将来の安全・安心を真面目に考えて、できるだけ多くの情報を見聞きしてください。

そして、混乱したり、訳がわからなくなったら、しばらくそのままにして日常生活を送ります。「静観」とか「待つ」とか「自身の中で機が熟す」のようなイメージです。待っている間は「判断」は避けます。「判断するときではない」からです。

情報を入手することを止めて日常生活を送っていると、不思議とふと『閃き』が起こります。「判断基準」をひらめくこともあれば、より深く知るために「追加で調べたい」ことをひらめくこともあります。人それぞれ異なるため、一概には言えませんが、なにかしら閃きます。

もし、追加で調べたい「事柄」にひらめいたのなら、次はその「事柄」について調べていきます。①と同じように多くの情報を収集するのです。

①と②を繰り返していくと、だんだんと自身の考えや意見などが見えてきます。誰かから流されて影響を受けた「情報」ではなく、自身の判断によって選んだ自身の意思や考えを表す「情報」が見えてきます。

真偽を見抜く方法

私たちの周りには無数の情報が提供され、広がり続けています。『いろいろな考え方』があり、皆『自分が正しい』と思って発信しています。または「多くの人」をつくり出すために偽りや誇張表現などをつかった『正しく見える怪しい情報』などもあります。私たちはすべての情報を鵜呑みにすることなく、情報を判断し、真偽を見抜き、取捨選択していかなければなりません、

「ワ」で全体を見る

真偽を見抜くには「ワ」で全体を見ます。

「ワ」で全体を見る方法は、【ワの会とは?】に書かれている、「ワ」の考え方や、「ワ」から発展して「マル」「球体」「螺旋」となり発展していく考え方で見ることです。偉い人、頭の良い人、専門家など「誰が」ということは信じたくなるかもしれませんが、一旦脇において見てください。この方法で「真偽」のうちの「偽」を見抜くことができます。

単純に言えば「矛盾していない」「辻褄が合う」ということを見抜くわけですが、実はそんなに簡単ではありません。ある視点では「矛盾がない」と思っても、別の視点で見ると「矛盾だらけ」ということがよく起こります。また、ある人にとっては「得する」ことでも、別の人にとっては「生活を害する」ことだったりすることもあります。これらは「ワが乱れている」ため、「真」の情報とはいえません。「偽」の情報は必ずどこかに歪みを生じている、という考え方で物事を見ます。

真偽の「真」は定義が難しいのですが、「ワ」が乱れていなければ「真」とみなして良いと思います。ただし「真」は1つとは限りません。人間の『価値観は様々』なのと同じように、「ワ」が整っている考え方も様々です。

「ワ」は、どこから見ても、誰の視点から見ても、循環し「マル」や「ワ」、「螺旋」を描きます。誰かの利害関係だけの目線ではなく、全体の調和が取れてバランスが保たれている状態です。一部の人が利益を得て、一部の人が損や害を被ることはありません。また、「ワ」はうまく取り繕うと思ってもそう簡単に取り繕えるものではありません。どこかで必ず「ほころび」が出ます。「ワの視点」で見れば、そのほころびに気づくことができるのです。

一次情報

真実を見抜くもう一つの方法として、情報源を確かめる方法があります。

「一次情報」の場合は、一番初めの情報なので「情報」としては信頼できます。しかし、その内容が「真」か「偽」かは不明なため、「ワ」で全体を見る必要があります。【例:教育という見せ方・プロパガンダ・「ワ」の考えが大切・他】

「二次情報」の場合は、「一次情報」をどのように扱っているかで内容が大きく変わります。客観的に扱うか、主観的に扱うか、何かの目的を持って扱うか、これだけでも3つの解釈が生まれることが分かります。「多くの人」を作ろうとしているのかを注意深く観察する必要があります。

さらに「三次情報」以降では、「一次情報」自体が不明である場合も多く、単なる「噂話」でしかないことが度々起こります。【例:噂を広めるという見せ方】

どこからの情報なのか、また、その情報は「一次情報」か、はたまた「二次情報以降」の情報かなのかを気にすることで、情報の真偽を判断する助けになります。

判断する方法

物事を判断するには「ワ」で見ることが大切です。『自分が得する』選択肢を選びたくなるかもしれませんが、「ワ」でみてみると本当は「自身が得する考えと言い切れない」ということが分かります。

例えば、人の一生です。ワの視点で「得すること」を人生に当てはめて説明してみます。

人は「生まれ」、いずれ「死」を迎えます。その間に多くのことが起こります。「今の」自分にとって『得する』ことでも、「老いたときの」自分にとっては『損する』ことかもしれません。または、「今の」自分にとって『得する』ことでも、「自分の親」にとっては『損する』ことかもしれません。

想像してみてください。いくら自分が得しても、自分の親が苦しむのなら、間接的にあなた自身がつらい状況に陥る可能性が生じるのです。「今」という視点で見ても「未来」という視点で見ても、どんなときでも「自分だけ」が得するなんてことはありません(「独裁者」や「支配者」などはいつも自分の得ばかり考えているかもしれませんが、これは「ワ」ではなく「ワを乱す」行為です)。ですからいつでも、どんなときでも「ワ」を大切にすることが「自分自身を大切にする」ことにつながるた、重要なことなのです。

前項の【知識を得る方法】で説明した【① 幅広い情報や、多くの意見を収集】し、【② 混乱したら、しばらくそのままにして待つ】ことで、自然と判断できるようになります。

幅広い情報を得て、多くの意見を見聞きして、自身の「頭脳」と「心」で判断できるひとが一人でも多くなれば良いなと願っています。

「ワ」の考えが大切

物事を判断するには、「全体を見る」ことと、「その全体のバランスが取れているかを見る」ことがなによりも大切です。視野を広げるということです。

1つの物事だけを切り取って考えた場合、一つの歪みが、新たな歪みを引き起こすことがあります。「民主主義」で行うには、皆が全体をバランスよく見て、皆で考えて決めていかないと、人類はおろか、自然環境や地球まで滅びてしまう危険性が、大げさではなく「在る」と思うのです。

もう間に合わないかもしれません。でも、もしかしたらまだ間に合うかもしれません。未来を完全に予知することは難しいですが、危機を予測し、そうならないように私たち人間が軌道修正する必要が在るのではないかと感じています。

「ワ」については【「ワの会」とは?】をご覧になってください。

「ワ」は自分も大切にして、周りも大切にすること

ワを大切にするということは、自分だけでなく、周りも大切にするということです。また、人だけではなく、すべてが「ワ」で整う考え方です。ですから、「ワ」は自己犠牲や我慢、努力などをすすめるものではありません。

現在、日本国民は「情報を自分で選択して入手できる時代」に生きています。そしてまた、各自が情報を発信することも可能です。

例えば情報を発信する場合、自分だけが「得を得る」ような発信ではなく、見ている人も「得を得られる」ような情報を発信してほしいと思います。地味で面白みのない情報になってしまうかもしれません。しかし、視聴数や感情に訴えかけるような少しでも嘘や誇張のある情報は発信しないでいただきたい、そう思っています。【選手宣誓】

お金を稼ぐこと、目立つことだけでなく、『自分の本心に気づくこと』がなによりも大切だと「ワ」では感じています。あなたの情報の発信が「危険」を起こすきっかけになっているかもしれないということを考えていますか?自分のことも、周りのことも大切にする気持ちがあれば、未来は安心できるものになり、安心が続いていきます。

『お金を稼ぐことがあなたの本心ですか?』と自身に問いてみてください。おそらく『生きるために仕方がない』とか『安心した豊かな生活を送りたい』など、「生きる」という現実に直面した気持ちであり、それは本心ではなく、生きていくための「生存欲」といえます。きっと、すべての人の本心は、『安心・安全に・心配することなく、自由に、苦労せず、生きていくこと』ではないのでしょうか。

私たちは、私たちの未来を守るために、正しく判断して、自分の意見や希望、未来像などをしっかりと持ち、未来に責任を持った言動をする必要があると「ワ」では考えています。

長くなりましたが以上です。

まとめ

「民主主義」を「ワの思想」でみてみました。今回は、まとめているうちに「日本人」の共通する性質が見えたような気がしました。また「民主主義」の恐ろしい一面を見た気がしました。

価値観や思想の違いにより、一つの言葉でも、人それぞれ定義や意味が異なることがあります。それが一つの文章となったらなおさら、文章全体の解釈や、受け取る意味合いまでが変わってくるものです。

民主主義の説明に含まれている「多数の意思が政治を決定する」「直接民主主義」「間接民主主義」の他、「ワの視点で見た課題や懸念点」「ワの整う民主主義」「情報を得る方法」「真偽を見抜く方法」などを書いてみました。

民主主義は私たちの生活に深く関わっているため、「ワの視点で見えた」多くのことを書きたくなってしまいとても長い記事になってしまいました。「ワ」特有の考え方を説明するのはいつも表現の難しさを感じます。

おわりに

「ワの会」は「ワを大切にする人」の集いの会です。ワを大切に生活することは一人でもできますが、ワの人が集えばさらに楽しく、世の中まで明るくなると思っています。ワの会の仲間になりませんか?

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