「ワの会」を立ち上げた理由

「ワの会」を立ち上げようと思った理由を記しておきたいと思います。本来は、静かに、目立たないように生きていこうと思っていましたが、様々なことが重なり、「ワの会」を立ち上げるに至りました。

私自身が初心を忘れないために、また、「ワの会」が発展したあとも、「ワの会」が行く先を見失うことがないように、ここに理由を記します(問題提起の意味合いも含みます)。

目次

9つの理由

まずは結論から書きます。

私が「ワの会」を立ち上げた理由は、日本(世界)をよくしたいと思ったからです。そして、最終的な使命として、ワの国をとりもどしたい』(『ワの国に還りたい(戻りたい)』)と思ったからです。【ワの国とは?】

具体的にどのようなことなのかといえば、以下の9つになります。

第一の理由は、『これから先、日本をはじめ、世界はどうなっちゃうの??』『どこに向かっているの?』という危惧感です。

第二の理由は、危惧感があっても『どうしたらいい?』のかが分からないからです。選択肢がほしい。そう思いました。

第三の理由は、”誰もやろうとしていないように見えた”からです。『自分でやるしかない』そう思いました。

第四に『諦めたくない』からです。『日本の未来は明るい』『日本や世界の未来を信じたい』そう強く願ったからです。

第五に『後悔したくない』からです。私自身が死するときに『やっておけばよかった』と悔いを残したくないからです。

第六に、『皆で幸せになりたい』『皆が幸せに安心して暮らせる世の中になってほしい』『安心して暮らせる世の中をつくりたい』そう強く願うからです。

第七に、『同じ価値観を持つ仲間をつくりたい』と思ったからです。

第八に、『人々が持つ根底の価値観や考え方が変わらなければ、何も変わらない』と思ったからです。

第九に、これは個人的なことですが『これしか選択肢がなくなった』からです。これで覚悟が決まりました。

ひとつずつ説明しますね。と、その前に、そう思うに至った原因を書いておきます。

原因:現状の認識とそれに対しての解釈

まずは、私が認識している現状と、それに対する直感的な気持ちを率直に書きます。

1.ニュースを見聞きしていると、「客観的事実だけを伝えている」ニュースがとても少なく、主観的に何らかの思想へ誘導したい「何か」を感じる。コメンテーターの発言やコメント欄もしかり。(情報を正確に知りたい。情報に流されずに判断したい

2.時事ネタを発信しているジャーナリストやユーチューバーやインフルエンサーたちが、偏った思想で解釈したものがトレンドやブームとなり、閲覧者の思想や解釈までもが誘導され、歪んだものとなっているのでは?と懸念される。(→受け手が、意味を理解しないまま思考を奪われてない?同調圧力が生まれているのでは?

3.世の中の真実や闇を暴こうと情報発信してくれる人がいても、それは本当のことなのか。また、そのことが本当なら、どうしたらいい?を提案したり、実行する術を発信する人がいない。(不安を煽っているだけでは聞き手はただ不安になるだけでは? 私たちはそれに対して何ができるの?できることはないの?

4.ニュースに対してのタイトルや内容が、再生数や閲覧数を増やすことを目的としていると感じる。(→純粋に内容を伝えることを目的とせず、金銭を得ることを第一の目的としているのでは?それなら正確で客観的なニュースや情報を伝えることはできてないよね

5.正しい情報や、情報の詳細を調べたいとき、大抵は料金がかかる。1つ1つは少額でも、情報源が多岐にわたる場合は、それ相応の出費が必要。だから殆どの人は無料で入手できる情報で判断するだろう。(→誰もが正しく知り、賢く判断することが難しくなってしまう。その結果、知識を得られず騙される

6.人に対してのラベル付け、レッテル貼りが極端で、そのレッテルごと相手を貶めたり蔑んだりしている人たちが増えてきて、戦闘前のような危機感を感じる。また、そのラベルやレッテルに対しての知識も乏しいのでは?意味が分からずただ叩いているだけと思わざるを得ない。(→貶めたり蔑むくらいなら、客観的事実と知識に基づいた批判をしたらよいのでは?感情的なラベル付けは争いを生むだけ。正しい知識が必要


ここからは、理由に対しての説明をつらつらと書いています。少々長いので、ゆったりとした気持ちで読んでみてください。

1.これから先、どうなっちゃうの?

第一の理由は、『これから先、日本をはじめ、世界はどうなっちゃうの??』『どこに向かっているの?』という危惧感です。

日本は世界は、どこに向かおうとしているのでしょうか?そのために、何がなされようとしているのでしょうか?

そして、人々は、どこに向かいたいと思っているのでしょうか。流されるまま、どこに向かってもよいと思っているのでしょうか。

私は、「人々の楽しみや自由、幸せが奪われたり、国民の命を軽く考えられて戦地へいくように命令されるような未来」を望みません

様々なニュースを見聞きしていると、事実は1つなのに、伝え方が全く異なることがとても多いです。

あるひとつの同じニュースなのに『良かった〜。大賛成!ありがとう』という解釈と、『え?なんてことを!これから先は大変だ。備えろ!』というような正反対の解釈に分かれることがあります。

それは、根底となる価値観や思想が違うから当たり前と言えるのですが、その「根底となる価値観や思想」は、作ることができてしまうのです(作られてしまうともいえます)。ということは、意図的に思考や感情を誘導されてしまう危険性があるということで、それは、未来を脅かす原因となります。

私たち一般の国民は、報道などを見たり聞いたりして判断するしかありません。受け取る情報に偏りや意図的な部分的削除などがあれば、知らないうちに世の中を偏った解釈で見てしまい、結果として間違った解釈を取り入れ、自分自身の思想とは異なる判断をしてしまうという危うさがあります。

感情的に「不安視」「楽観視」をしないために

情報に誤りや偏り、意図的な追加や削除があっても、情報を見極める方法さえ知っていれば、知識が少なくても客観的事実のみを抽出して判断することができます。

しかし、見極める方法を知らなければ(物事に無知な場合は特に)、誰かの解釈を参考にせざるを得なくなります。誰かの言うことを鵜呑みにして、信じてしまうこともあるかもしれません。

それはとても危険なことで、知らないうちに自身が望んでいない方向へ連れて行かれてしまう可能性を生じます。

『正しく判断するためには何が必要か』と考えたとき、「知識」もしくは、「正しく判断する技術」が必要という結果にたどり着きました。「知識」を得るには、学ぶしか方法はありませんが、「正しく判断する技術」として「ワ」を知り、「ワ」を大切に生きるだけで、むやみに流されることを避けることができる』と考えています。

世の中に出ている「情報のすべてを判断」する知識を得ることは、ほぼ不可能です。それは、ニュースや情報は、あらゆるジャンルがあるためと言えます。また、経済に詳しい人、歴史に詳しい人など特定の分野の専門家はいますが、その専門家と称する人が偏った考えを持っていることもり、盲信するのは危険です。

人間がもつ根底の思想や価値観が「ワ」になれば、「正しく判断する技術」も自然と身につきます。その結果、解釈する土台となる「ワ」の考え方を基準とすることで、今まで見えなかったものが見え、気づくことができなかったことに気づくことができるようになります。

伝言ゲームにしない

ニュースなどの情報を人と共有しようとする際、その情報を広めようとする意思も働きます。そのときに、間違った解釈を事実として伝えれば、相手には間違ったまま伝わります。さらに、間違ったまま伝えられ、ときには多少脚色されて伝わり…続けると、行く先は伝言ゲームと同じです。情報が、どんどんおかしな方向へ向かい、最終的には、全く違う意味を持つニュース(情報)になってしまいます。

「全く異なる意味を持った情報」を人々が真実として受け入れてしまったら、未来の方向性が変わってしまうかもしれません。

ですから、人々と情報を共有するには、伝言ゲームにすることなく、『事実の正しい判断と、事実の正しい解釈』が必要で、そのためには『伝え方』が大事なのです。

何を伝えたいのかを見極める

表向きのニュース、整合性の取れない文章、ジャーナリストさんたちの見立て、国民の自由な見解と主張、そして、それらを見聞きした自分個人の主観、受け取り方、解釈。。。。

それらをまとめても、ひとつの解釈にはならず、ひとつの解釈どころがバラバラに散らかっている。この「ニュース」は、何を伝えたいの?何を目的に?

それは、伝言ゲームの真っ最中かもしれません。

そのようなとき、『あぁ、私達をなにかの思想に連れていきたいのかもしれないな』と感じてほしいのです。そして、『連れて行かれるのは危険が伴うこと』だと気づいてほしいのです。そのためには、多くの人の「見極めるワの術」が必要なのです。

騙されないで

情報を、客観的で正しく、真面目に伝える人がとても少ないと感じています。そして、残念なことに「再生数」や「閲覧数」に囚われ、その「数」を多く取るために「不安感を煽ったタイトル」「大げさなタイトル」になりがちです。

人間は、不安を提起されると、恐怖や守りの感情が大きくなりすぎ、情報の正誤を正しく判断できなくなってしまいます。一種の暗示や洗脳と言ってよいかもしれません。

残念なことに、「正しいことを言う真面目で普通のタイトル」では、人々の気を引かないため、なかなか見てもらえない、という現状もあるのです。

『見るだけて不安になるタイトルは見ないようにしよう』とか、『不安や恐怖に陥らないようにフラットな気持ちで情報を見よう』などの騙されない防衛策が必要です。

「ワ」で生活していれば、それらの情報を見ても、『あれ?なんかへんだぞ?』と気づき、騙されることが少なくなります。

何を信じればいいの?正しく判断するために

不安が大きくなると、どうしても何かにすがりたくなる気持ちまでもが大きくなります。何かに依存したくなるのです。誰かの言うことを信じたくなってしまうんです。

皆が信じてる、大勢が楽しそうに何かをしている。。。だから信じる。。。大勢がやっていることが正しいですか?それが真実だと言えますか?

うわべのノリ、誰かの発言を根拠なく信仰するのは危険です。そして、その危険性に気づいてほしいと思っています。

学歴がなくても、専門的に学んでいなくても、簡単に正しく判断する方法を伝えたい。そのために「ワ」の考え方があるのです。

『どうしたらいいの?』までは分からなくても、「ワ」を大切に生きていれば、『なんかへんだぞ?』に気づくことができます。まずは、そこからです。

2.どうしたらいいの?

第二の理由は、危惧感があっても『どうしたらいい?』のかがわからないからです。選択肢がほしい。そう思いました。

情報が、客観的な正しい情報だと判断できたら、次にその情報の重要度をはからなければなりません。放おっておいてよい事柄なのか、それとも、危険が伴う事柄なのかを判断するということです。

ここではたいてい意見が分かれます。

現状はどうなっているのか?そして、その現状に賛成なのか反対なのか、それとも、別の意見や提案があるのか。。。

もし、何らかの危惧感があるなら、意見を伝えるなどの行動を起こしたいと思いますが、「何を」「どこに」「どのように」伝えればいいのか、また、他の方法はないのかなど、知りたくても分からないという状況に陥ってしまいます。

その結果、不安や恐怖の感情だけが残るのに、何もできず、ただただ時間だけが過ぎてしまうのです。

「デモ」や「署名活動」はあるけれど・・・

何かを社会に訴えたいとき、デモや署名活動などの方法があります。たまに、ニュースや動画配信でデモ隊の活動の様子を見るのですが、私にはその先にある効果としての「結果」が不透明だと感じることもあり、モヤモヤするのです。ニュースにならないデモや、受取を拒否される署名などもあるそうで、国民は本当に無力なんだなと・・・(本当は国民主権のはずなんですけどね)。

デモの場合、逆の思想を持つ人からは「冷めた目」でみられ、訴えていることさえきちんと伝わっていないのでは?とも感じるところです(これは、レッテルを貼ることによる誹謗中傷ということです)。

自分と違う主張でも、「相手は何がいいたいのか」を知り、それについて考えたり、議論したりすれば、世の中が良くなっていくと考えています。否定をし合うのでは、争うばかりです。

冷静に事実を伝える場や聞く場を作ったり、双方の解釈を淡々と伝え合ったり、互いの立場を尊重しながら議論して、社会をよりよくする場をつくりたいと考えています。

イタチごっこでは解決しない

どうしたらいい?を考えるとき、最初に思い浮かべるのが感情的な『これはおかしい!』『間違っている!』というような言論で、その考え方を主張することです。

しかし、うわべの感情的な「おかしい!」という抗議だけでは、それはイタチごっこをしているようなものと言うよりほかありません。

何かがでたら「おかしい!」と主張する、すると、うわべだけ改善される。根本的な解決をしていないので、また新たに「何か」がでる。そしてまた「おかしい!」と主張する。またうわべだけ改善したように見せられる。また「何か」がでて。。。

これでは、なにかに思想誘導されていたり、伝言ゲームの当事者になっていても、気づくことさえできません。

冷静に落ち着いて考え、落ち着いたしっかりした考えで行動しなければこの国は良くならないのです。いたちごっこでは、『やっている気』になっているだけで、根本的な解決には至っていないのです。

誰も「それ」を言わない

なにか社会的問題が現れたとき、「どうするべきか?」「どうしたらよいのか?」などの解決方法を誰も教えてはくれません。

ニュースや動画などのタイトルで「危険だ!」「避難して!」「逃げろ!」などが書かれているのを見ますが、都市伝説や陰謀論、占いや霊視などのの類だったりして、そもそも信ぴょう性のないものも多いです。

解決方法は「自分自身で考える」のはもちろんかもしれません。しかし、それが感情的な行動になっているだけでは、何も始まりません。その批判的感情が増幅すれば、暴動のような荒々しい出来事が起こってしまうという危険性もでてきます。

個々が感情的に訴えるのではなく、前向きな「解決方法」がどこかにあるはず。「ワ」を持つ人たちが知恵を出し合えば、きっと、「どうしたらよいか?」がわかるのでは?そう思いました。

有料会員なら教えてもらえているのかもしれない

何かの懸念事項があるとき、有料会員や情報を有料で購入している人ならば、「どうしたらよいのか」の情報を共有できているのかもしれませんが、私には分かりません。

どうしたらいいのかの手段については、有料会員にだけ「何かしらのヒント」が与えられるのは致し方ないかもしれません。しかし、本当に世の中を変えたい、良くしたいと思うのなら、どのような人にでも分け隔てなく広く伝えなければ、現状は何一つ変わることはないだろう、と思っています。

ですから、私は金銭的に余裕がない人や、そもそもお金なんてかけたくないと思うような人にでも、最低限の情報と考え方は「無料で伝えたい」「無料で伝える場が必要」だと思い、『つくろう!』となりました。

誰かに託すという判断の危険性を知る

例えば選挙などで誰を選ぼうか決めるとき、人々はどのように決めているでしょうか。「公約」を調べたり、「政党」の主義主張を調べたりすることもありますが、意外と多いのが、雰囲気で判断してしまうことです。

笑顔が素敵だから。→きっといい人に違いない。

はきはきと分かりやすい話し方をしている。→信用できる人に違いない。

身なりや姿勢が整っている。→信頼に値する人だろう。。。などなど。

でも、それは『だろう』とか『そう思う』とか、『そうに違いない』というような、曖昧で感情的な判断です。

『どうしたらいい?』が分からないから誰かに託す。これは、「託す相手が誰か」という問題もありますが、とても危険な考えです。後々、『信じていたのに』『そんなはずじゃなかった』と感じるのがおちです。「ワ」を乱す人は、自分の利益ばかりを優先するからです。

「ワ」を乱す人を見極める力が必要だし、また反対に自分自身が「ワ」を乱していないか省みることも必要なのです。

これからの時代は、「託す」だけではなく、共に考えて共に行動することも必要だと強く感じており、「ワ」を大切に生きるための「ワの思想」を広げることが不可欠だと思いました。

3.誰かがやらねば滅びてしまう

第三の理由は、”誰もやろうとしていないように見えた”からです。『自分でやるしかない』そう思いました。

とはいえ、「何かをやろうとする」のは、勇気が必要です。その行動を起こしたばかりに、自分の立場や信頼がなくなってしまうかもしれない、と不安もよぎることもあるかもしれません。

人任せと無関心

活動家のような人が賢明に訴え続けてくれているのを見て、『おかしな世の中が変わるかもしれない』『おかしな世の中を変えてくれる』などの呑気に考えていたこともありました。しかし、気づいたら、いつの間にか、その人は何も言わなくなっていて、「大事な情報は有料で」というような発言に変わっていました(これは責められる話ではなく、生活があるので仕方がないと思います)。

「誰かが変えてくれる」人任せな気持ちでそう思っていましたが、人任せって裏を返せば『無関心』に通ずるところもあると気づきました。

誰かがやらなければ、どんどんおかしな世界に移行していきます。私達の、安全で安心で平和で幸せな暮らしが滅びてしまいます。

「誰かがやらなければ」は、はじめの一人です。それを「皆」で持ち合って、「皆」で考えてひとつの案にし、それを広げて伝え続け、未来を皆で楽しく作っていきたいと強く感じています。

「何」から始めるか?「何」をはじめるか?

認識できる「意識」は、自分の内部だけです。「誰かがやらなければ」のスタートはまずは自分自身です。

個人の心の中で考えるとき、それぞれの価値観が「それぞれの解決策」を生み出します。その「解決策」が個人的な利害関係を根底にしたものであれば、それは解決策とは言えず、個人的な「理想」で「ワ」を乱す行為でしかありません。

「何から始めるか」は、どこに向かうのかのゴールを決めた最初の一歩です。

ゴールは、皆が賛成できるもの(皆の利益や幸福になるもの)でなければ、また繰り返し別の危機が現れてしまうため、「ワ」の考え方が最低限必要です。「皆」という定義は、多数決という半数を超えるか超えないかよりももっと多数の人数をいいます。

「何を始めるか」は、ゴールを決めたあとに行う、具体的な行為です。

個人的な損得勘定を抜いた「ワ」の思想で、皆で協力しあって意見を出し合い、共に考えて実行し、時々に必要に応じて軌道修正していくのが最善だと考えます。そのような場をつくるために、価値観や思想がはっきりと示されている場その思想に共感する仲間を集う「ワの会」が必要だと思いました。

皆が「ワ」の気持ちで生きたらきっと、いや、必ず世界は変わります。

4.未来を諦めない

第四に『諦めたくない』からです。『日本の未来は明るい』、『日本や世界の未来を信じたい』そう強く願ったからです。

未来を想い、絶望する機会が増えました。経済のこと、社会保障のこと、憲法のこと、法律のこと、国際平和のこと、、、不安材料を挙げたらきりがありません。

ですが、絶望したまま未来を諦めてしまったら、そこで終わりです。ここで終わるわけにはいきません。未来の子どもたちのため、未来の日本のため、未来の地球のため、未来は絶対に諦めません。

ゆでガエルの話から未来を真面目に考える

ゆでガエルの話を知っていますか?「ゆでガエル理論」ともいうそうで、水を急激に沸かしてしまえばカエルは熱くて逃げることができるけれど、ゆっくりとじわりじわり加熱すれば、カエルは熱さに気づくことができず、結果として、逃げることができずに茹でられてしまう。というお話です。

私達人間も、ゆでガエルになっているのでは?と思います。

耳障りの良い話をされ、心地よい未来の希望の話をされて、信じて安心しているうちに、気づいたら「国民の人権」が無くなっていたり、「戦争」になってしまうかもしれません。

『大げさだよ!』人はそう言うかもしれません。でも、「それこそがゆでガエルかもしれないよ」と伝えたいのです。

未来を真面目に考えることが重要だと強く思っています。

記憶は薄れる

社会に対して、『これは危ない』と懸念しても、月日が立つにつれて記憶は薄れ、『危ない』という認識自体が忘れ去られていきます。

もしかしたら、意図的に「忘れるように」「考えないように」されているのかもしれません。

日々のニュースは1つだけに絞られることはありません。次から次へと新しいニュースが紙面(画面)を賑わせます。そのたびに、私たちは、心を働かせ、『良かった』『ひどい』『なんで?』『嫌だ』などの感情が動きます。

最初に『嫌な』ニュースが飛び込んできても、次に『良かった』『嬉しい』『楽しい』ニュースが次々に流れてくれば、初めに感じていた『嫌な』気持ちが薄れ、『嬉しい』気持ちで満たされ、危機感は薄れ、いずれ無くなっていくのです。

それを「よし」とする考え方もありますが、未来の危険性が含まれているニュースを「忘れてよし」としてはだめだと思うのです。

ゆでガエルの話にも通ずることですが、大事なこと、重要なことは忘れてはならない、そう強く思っています。

私達にできることはなんだろう

私達にできることは?そう考えたときに一番に浮かぶのは、知識をつけることです。賢くなれば、理解できるし、しっかりした知識のもとで判断ができるようになります。

しかし、知識をつけることは簡単ではありません。なにか1つの知識をつけようとした場合でさえ、時間やお金はもちろん、気力と体力をも使います。そのような状況で、知識をつけようと努力する人はあまりいません。

とすると、できることはたったひとつです。「ワ」を根底とする考え方を知り、実践して生きること。ただこれだけです。

「ワ」の概念を知り、ワで生きることができれば、「未来をよくする第一歩」になります。『諦めよう』『諦めない』などを意識する前に、そもそも『これって変だよね』と常日頃から感じてしまうので、その先の『どうする?』『どうしたらいい?』しか意識に上らなくなります。

私たちは、真の賢さを取り戻さなければなりません。

私達がしてはいけないこと

私たちがしてはいけないこと。それは、「戦い」と「戦いに発展する行為」です。同じ視点でいじめや差別もしてはいけません。

戦いとは、戦闘、戦争などの武力や権力を使う戦いを指します。

戦いは何も生み出しません(一部の権力者と言われる人や、そのような価値観を持つ人の利益を生み出すことはあるかもしれませんが、総合的にみて、失うことは多く、生み出すことはありません)。

「ワ」の心で生きれば、そもそも「戦う」ことの必要性がないため、戦うことはありません。

5.後悔しないために

第五に『後悔したくない』からです。私自身が死するときに『やっておけばよかった』と悔いを残したくないからです。

私自身の個人的な思いですが、人生の終わりを迎えたときに『もっとできることがあった』『あれをできなかった』『これもできなかった』と思って最期を迎えたくないのです。最期に『あれもやりたかった』『これもやってみたかった』と過去に思いを馳せても、そのときに思っては手遅れなのです。

私は今、生きています。後世に残せること、残したいことを実行することができます。

だから「できることをやろう!」そう思ったのです。わたしにできることは「ワ」を発信して「ワ」を広げること。そして、「ワ」を集って皆で「ワ」を楽しみ、「ワ」の世界を皆でつくること、そう思っています。

できる人が、できることをしたら変わるかな?

私は、後悔したくないために、「ワの会」を立ち上げ、考え方や情報を発信することを決意しました。

私ができることは、「ワ」を伝え、「ワ」を広げること。皆で安心して暮らそうと提案することです。

そしてまた、同じような気持ちを持っている人がいるなら、楽しく繋がることができたら最高だなと思っています。

『もし誰も共感してくれる人がいなかったら?』それでも私は、「ワ」を広げ続けます。『私自身が後悔しないために』『未来を諦めないために』。。。そして、それこそが「ワの会」で伝えている「泥の中に咲く一輪のワ」なのです。

私が世界中にたったひとつしか咲いていない「一輪のワ」だとしても、寂しくても孤独でも辛くても、私は「ワ」を咲かせ続けていこうと決心しています。

6.皆で幸せに暮らそう

第六に、『皆で幸せになりたい』『皆が幸せに安心して暮らせる世の中になってほしい』『安心して暮らせる世の中をつくりたい』そう強く願うからです。

「幸せ」の定義は、人それぞれ違うかもしれません。だから「皆で幸せに」という答えは1つではないと思います。

でも、「私たちは人間である」ということは紛れもない共通点です。お腹が空くし、眠くもなります。転んで怪我をすれば痛いし、血が出ます。

人は、危険を感じたときに『逃げる』か『戦う』かを瞬時に考えるそうです。だとすると、危険を感じなければ、逃げたり戦ったりする選択肢は生じないということになります。

命に関わる危険はだれでも「嫌」なはずです。「危険な世の中」の反対側が「安全な世の中」で、皆で幸せに暮らすという意味になります。

これも、「ワの心」がとても大事になってきます。皆で幸せに暮らしましょうよ。

気づいたら、戦争になっていた!なんてならないために

そもそも、「戦い」はしてはならない行為ですが、危険を感じて「逃げる」or「戦う」と選択肢の中から「戦う」を選んでしまえば、それは「戦争」です。

本能的には、「逃げる」か「戦う」を選択するらしいのですが、私たち人間は「考える力」を持っています。ですから、その中間にある「戦わずに話し合う」ことができるのです。

戦いに発展してしまう前に、「ワ」の心を持って相手を尊重し、じっくりと話し合うこと。そして、お互いが自分の利益だけを追い求めることなく、互いが利益を享受できる方法を探っていくことこそが、皆が幸せに暮らせる第一歩です。あきらめずに、しっかりと話し合いたいものです。

7.皆でつながろう 力を合わせよう

第七に、『同じ価値観を持つ仲間をつくりたい』と思ったからです。

「ワ」の心で「ワ」を大切に生きれば、世の中は幸せに満ちる。そう思って生きていても、正直なところ、現在では、「ワ」を大切に生きている人はごく少数です。ほとんどの人が『自分だけの利益』という価値観で生きています。

ですから、孤独に感じたり、否定的に言われたりして傷ついてしまうことがあるのです。

「ワ」の人たちがつながれば、その孤独や自己否定のような気持ちが安らぎ、癒やされます。価値観が同じもしくは、似ているので、話も弾み、楽しく、幸せな気分になります。

そもそも「ワ」の人は、問題提起をすることはあっても、他者を誹謗中傷したり、排除や差別をしないので、場の空気を乱しません。「ワ」の人が集まれば、朗らかで、明るい空気が満ちるのです。

戦わずに「ワ」を広げたい

「ワ」を広げたい。「ワ」が広がれば世界は変わる。そう思っています。「ワ」の人が知恵を出し合えば、日本も世界も地球も蘇る。そう確信しています。

決して戦いません。戦わずによくなる知恵を出し合い、議論するのです。議論は戦いではありません。

「ワの人の考えや意見」を共有する場を作れば、情報交換したり、方法を提案しあったりすることができます。また、客観的事実を知りたい場合には、どのようにすれば、それを調べることができるのかなどの情報を共有することができるようにもなります。そう思いました。それが「ワの会」です。

右でも左でも保守でもリベラルでも中道でもない「ワ」の丸い概念

「ワ」の思想は「丸」を描きます。ですから右や左などの思想に当てはめることができません。

例えば、憲法改正に反対すれば「左」のレッテルが貼られ、移民反対を訴えると「右」のレッテルが貼られるようです。戦争に反対すると「左」のレッテル?、戦争を許容すると「右」のレッテル?が貼られるのでしょうか。自由を主張すると左側?・・・だんだんと、何が「右」で何が「左」なのかの意味や主義・主張ががわからなくなってくるのです。

憲法から見ると「左寄り」と思われる思想でも、移民政策では「右寄り」と考えるような人は山ほどいます。経済政策では何が「右」で何が「左」なのでしょうか。

それを「あの人は右だ!」「あの人は左だ!」と決めつけることは視野を狭めるだけで、『どこに向かいたいのか』『何をしたいのか』の目的が分かりません。

本来、レッテルを貼る必要はないのです。思想を区別するのに役立つのかもしれませんが、思想の違いによる差別的思考で、蔑んだり戦ったり卑下したりする必要はありません。「いじめのため」「叩くため」「蔑むため」にこのレッテルを利用しているように思えてなりません。

もとを正せば、このような思想の違いがあっても、本当は皆、平和を望んでいるのではないかと思うのです。幸せに安心して暮らしたいと願っていると思うのです。ですから、戦わずに「ワ」を大切にしなければ、不要な争いを生むだけで何の解決にもならない、そう感じるのです。

「ワ」は丸い思想で、既存の概念には当てはまることはありません。【ワの会とは?】

8.判断する知恵と価値観

第八に、『人々がが持つ根底の価値観が変わらなければ、何も変わらない』と思ったからです。

例えば、ニュースなどの報道を見て『○○しなければ危ない!』と思っても、皆が同じように考えているとは限りません。

また、ニュースなどの報道が、何を伝えているのかの趣旨を読み取ることができず、『ふ〜ん』でおしまいにされていることもあります。

社会をどのように見ているかは人それぞれで、人の考え方を強制することはできません。大きな組織ではプロパガンダを使い、意図する思想へ誘導することができてしまうため、そこが難しいところですが、人々が持つ根底の意識が変わらなければ、今の「危機を感じる世界」が「安心できる世界」へと変わることはないと危機感を感じています。

静かなる選択

『声をあげると叩かれたり、批判されるかもしれない』でも『未来に希望がほしい』そのような場合には、「戦わずに選択する」方法があります。

それは「ワの考え方を選択し、ワで生きる」ということです。『「ワ」の考え方を選択して、これからは「ワ」を大切に生きよう!』そう思うことです。

心の中で「自分の生きる方向性」を決めるだけなので、誰に宣言する必要もありません。「ワ」の考え方をを大切に生きていけば、おのずと「安心して暮らせる世界」へと進みます。

「ワ」で生きれば、誰かに考え方を強要することなく、また、強要されることもなく、戦わずに自然と、自動的に選択肢が提案されます。提案された人は、「ワ」の考え方「ワ」の優しさに『いいな』と思ったら、静かに選択すればよいだけです。きっかけが自然に提案され、それが個々の選択のもと広がっていったらこの世界は変わる。そう思いました。

なぜなら、皆が、「自分だけ」ではなく、「ワ」すなわち「丸い」理論で物事を考えるからです。

踏み絵

歴史の授業で「踏み絵」を習ったことを覚えていますか?人の信仰を確認するために、絵を踏ませるそれです。

逆説的な考え方ですが、いまの世の中は、そのような風潮もあるのでは?と考えています。私の考える「踏み絵」とはなにか?

それは「同調(圧力)」であったり、「人気(人や物)」であったり、「権力(人や財他)」などです。その「踏み絵」とされるものを踏む勇気、すなわち、反対したり抵抗したりする勇気はなかなか出ない、ということです。「踏む」という行為は「足で踏めるくらいの価値」と捉えてしまうからです。

「踏み絵」を踏まない=「皆で同調する」「人気な人に追随する」「権力者に盲従する」「言いなりになる」「人任せにする」

「踏み絵」を踏む=「『なにか違う』と意思表示する」「『自分で考える』を主張する」

そもそもこの「踏み絵」は、その人の思想をあぶり出す行為です。しかし、どのようなものでも「足で踏む」という行為自体に抵抗感を感じるのが「ワ」の考えです。「踏み絵を踏むのは悪いこと」、などと考えて何もできずに黙っていたら、何も変わりません。でも、「踏み絵」は踏みません。

もし、「踏み絵」を踏まされそうになったら、『踏み絵は踏みません!でも意思表示はしますよ』という気持ちで「ワ」を広げたいと思っています。

「選択しない」を選択できる

物事を選択しなければならないとき、『わからない』と感じることはよくあることです。

分からないときは、無理に選択せず、正しい客観的な知識をつけてから判断するとよい、と伝えたいと思います。

それまでの間は、「わからない」を選択するのです。つまり、「選択しない」の選択です。「選択しない」は無関心ではありません。選択できない状況にあるだけで「保留中」といえます。その「保留中」の期間に学んだり考えたりして「選択できる」状況に進みます。

とはいえ、一人で考えると、なかなか答えが見いだせなかったりします。そこで、一緒に考えたり、学んだりできる集まりがほしいとなりました。それが「ワの会」です。「ワの会」は純粋に「ワ」を実践して生きている人たちの集まりなので、洗脳や支配などありません。皆はそれぞれ自由ですが、それでいて、皆「ワ」を大切に生きているので、楽しく学べます。と、このような会をイメージしています。

手っ取り早く「知恵」をつけるには?

「知識」を得るには、時間もお金も労力もかかります。でも、賢い「知恵」なら簡単につけられます。

それは「ワ」の考え方に気づき、「ワ」を大切に生きることです。「ワ」は「丸い」考え方の概念なので、詳しい学問的な知識がなくても、物事を判断したり、取捨選択するための知恵が自然と身につくのです。

この「ワ」の知恵は、具体的な知恵とはいえません。しかし、『何を知ればよいのか?』『何がわからないと感じていたのか?』『何がへんなのか?』などの気付きや閃きが与えられ、そこから自分自身で能動的に調べることができ、その結果、必要な知識が身につく。という根底の知恵でとても重要なものと考えています。

9.これしか選択肢がない

第九に、これは個人的なことですが『これしか選択肢がなくなった』からです。これで覚悟が決まりました。

とても個人的なことなので、多くを書きませんが、選択肢がなくなって覚悟が決まりました。

似たようなことは、20年ほど前からほそぼそとおこなってはいました。しかし、目立ちたくないから、とか、アンチに堪えられない、とか、いろいろと理由をつけて、現実に対してや常識に対して忖度していたので、世間の常識に見合う物事や差し障りのないことしか発信していませんでした。

『「ワ」の一部だけを抽出して発信する』という、私自身が「ワ」を乱す考え方をしていたのです。

現実的な可能性を考える

日本と世界の行く先、人々や自然環境、生物たちの未来に危機感を感じ、黙っていたら本当に世界は滅びてしまう。。。

『私に何ができる?ー学ぼう』『何を学ぶ?ー憲法?歴史?法律?地政学?経済学?宗教?神話?????』いくら学んでも、追いつかないことは分かっています。

『学校で何を学んできたの?』と過去を振り返っても、学校のお勉強は、テストと成績で縛られているため、本当に理解しようと思った場合に生じる疑問点などを、その都度立ち止まって、調べたり、聞いたりする時間はありません。あれよあれよという間に卒業です。

社会人になれば、仕事をしないと生きていけないため、学ぶ時間は限られます。ましてや、学びにお金がかかるなら、そのお金はストレス解消や遊びなどの別のことに回したいからと学びを遠ざけることにも繋がり、知識をつけることができません。

ならば、根底の「考え方」が分かり、基本的な「思考の仕方」を理解できれば、物事の道理を判断できるようになるので、『あれ?なんだかへんだぞ?』『これ?ちがうのでは?』と直感的に感じることができるようになり、その結果として「何」を調べたいのか、「何」を知りたいのかが見えてきて最短コースで理解できるのです。

そのように考えたとき、『私の「中」にあるものを言葉にして発信するしか私にはできない』そして、先の『後悔しない』という気持ちと合わさり、「ワの会」を運営しよう!と覚悟を決めた次第です。(「ワ」をとりもどし、「ワ」を大切に生きように決心しました)

「ワ」でつながろう

右派、左派、保守、リベラル・・・など、世間には様々な思想があるようです。

個々が持つ思想の違いは、「正しい」と「間違っている」の解釈の違いを生み出します。そのような違いをそのままにしていれば、客観的事実を抽出したいと思っても、自身の希望や期待、思想が解釈に色を加えてしまい、正しい判断ができません。。。

ですから、根底となる考え方の中立的な柱(はしら)が必要です。「安心」で「安定」して暮らせる考え方の柱(はしら)、それが「ワの考え方」です。ワの考え方なら、右も左も様々な思想もすべて「ワ」の中に包括され、バランスをとることができると考えています。

「ワ」の思想で物事を見ると、軸がしっかりしているので、中立的に物事を見ることができ、そのため、ニュースの偏りなどを『あれ?なんかへんだぞ?』と気づくことができるようにもなるのです。

皆と「ワ」で繋がりたい。そう願っています。

「一人では小さな力でも、皆で意見を出し合い、協力すれば守ることができる。そう思いませんか?」と問いかけて、「ワの会」を立ち上げた理由を終わります。

(おわり)

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