ワの会とは?泥の中に咲く一輪の「ワ」たちの集いの会です。

「泥の中に咲く一輪の…」といえば、あなたは何を思いますか?

大抵の人たちは、蓮の花を連想するのではないでしょうか。

しかし、「ワの会」は蓮の花ではありません。泥の中に咲く、「ワ」です。

『「ワ」? 「ワ」って何?』そう思われた方も多いのではないでしょうか。私自身も書いていてそう思います。

ここからは、文式や形にとらわれることなく「ワ」の概念と「泥の中に咲く一輪のワ」の意味、そして「ワの会」について書いてみます。イメージで伝わる方と、全く伝わらない方がいるかもしれませんが、それこそが「ワ」の意味であり、「ワ」のゆらぎであり、「ワ」の真髄であるため、ご理解ください。

目次

「ワ」ってなに?

「ワ」に絶対的な意味はありませんが、具体例をいくつかあげると「この世界を良くする人」「バランスの取れた人」「安心を与えることができる人」「自分と他者とを大切にできる人」「生物を含めた自然界を大切に考える人」「アンバランスを調整する人」「周囲を照らす人」など、「ワ」を大切に実践して生きている人という意味合いです。

「ワ」の概念としては「マル」「○」「丸のような」と表現することができますが、とても多くの意味を包括しているので、その真髄は単純であり、シンプルですがとても深いです。

何からどのように書いていけばよいのか、とても難しいのですが、「ワ」の抽象化イメージをできるだけ具体的に言葉で羅列してみます。その全てをあなたの心の中でひとつにまとめてイメージしてみてください。一言では言い表すことのできないあなたオリジナルの「ワ」のイメージが視えてくるはずです。

では始めます。

「ワ」の直接的な意味

」は、私らしくのワです。そのままの「自分らしく」という意味です。「」とも書きますがちょっとキツイ粗めの感じに伝わるのを避けるためここでは「ワ」と書いています。

」は、平和、調和、などのワです。「全体が安心で整う」という意味です。日本という意味もありますね。足し算の答えも「ワ」です。

」は、マル(○)の「ワ」です。「矛盾しない」や「一周回ると始点に戻る」という意味です。「輪廻」「螺旋」という言葉のイメージとも通じます。

」は、環境や循環の「ワ」です。「自然の中の資源の循環」「生物の視点での生態系」など、バランスをとる、または、超自然的にバランスをとられるという意味です。

」は、言葉で伝えるの「ワ」です。話すことで、言わなければわからない、言わなくてもわかるような曖昧な伝達を的確に伝えることができます。

」は、自由や身軽さの「ワ」です。自分自身はもちろん、他人に対しても精神的に縛ったり、拘束したりせず、「重苦しくない」という意味合いです。自由な決断を与えます。

その他、辞書で引いてみるとたくさんの「ワ」を見つけることができますが、「ワとはなにか?」を語るのが目的なので、このくらいで次に進みます。

「ワ」の逆説的な意味

次は、逆の視点から、反対の意味とするものを書いてみますね。これもイメージなので言葉を絶対的なものとは捉えず、「ワ」のイメージを作るための表現と捉えてみてください。

「偽り」「取り繕う」は、(ワ)を乱す行為です。自分らしさを偽り続けると、心や身体が疲弊し、いずれ壊れて健康を害する可能性が高くなります。同じように「自己犠牲」も(ワ)を乱します。

「争い」「戦争」は、(ワ)を乱す行為です。全体が安心で整う「ワ」とは真逆で、傷や歪みを生じます。誰かのまたは、何かの利害関係を主張し、それを押し通すためにに戦います。

「差別」「排除」は、(ワ)を乱す行為です。足し算がプラス(和)なら、引き算はマイナス(差)です。算術ではただの減算ですが、これが例えば人間関係などに置き換われば、何か、または誰かと比較して、一定の基準をつくり、枠にはめたり、枠から外したりして管理しようとします。

「支配」や「脅し」は、(ワ)を乱す行為です。一方的に力関係や利害関係を押し付け、金銭的や権力的な強さで勝つために様々なことをします。(ワ)も乱します。「全体が安心で整う」ことはありません。一方が満たされると、別の一方が我慢や屈辱などを強いられます。一方的な損得、強弱、勝敗などが生まれます。

「人工」は、ときに(ワ)を乱す行為です。地球に初めから存在している自然のものは自然に還りますが、人工的に手を加えられた不自然なものは、自然に還らないものが存在します。自然に還らないものが地球を覆い尽くせば、地球は呼吸や循環ができなくなり、滅ぶ可能性が生まれます。

「一方的」は、(ワ)を乱す行為です。自然環境をないがしろにし、無視して、経済発展のためにだけ、お金儲けのためにだけなど、金銭的や利害関係の中で、または損得勘定だけでなど、一方向にだけ力を注ぎ続ければ、人類はもとより、地球や文明までもが衰退する可能性が生まれます。

「身勝手」「独裁」は、(ワ)を乱す行為です。きちんと伝えれば理解されるものを、わざと伝えないで実行するのは、きちんと伝えることができない「利己的な何か」がある事を意味します。本来、公明正大に「(ワ)」をして伝えれば、理解が得られるばかりか、応援されたり、共に実行するメンバーとなったりしますが、理解されない身勝手さや独りよがりがあるため、「話」を避けます。それは、隠したいこと、つまり「裏がある」ことを意味するのです。

「洗脳」「拘束」「強制」は、(ワ)を乱す行為です。教育と称して、意図的に誰か、または意図する何かの思想へ教え・導くのは、自由な判断や自由な行動、自由な思想を妨げ、「その人自身に決断をさせない、または思考を阻止させる意図がある」ということを意味します。また、誰か特定の人物や組織などの思い通りに物事を進めるために力で拘束したり強制するのは「他力によって強制的に阻止する」事を意味します。いずれも、自由を奪い、身軽さを重苦しさに置きかえてしまうことを意味します。

「ワ」の総括

ここまで書いてきた様々な「ワ」は、一つ一つの言葉の意味は「ワ」を表しますが、単独的で一方通行です。しかし、これらの「ワ」を総括すると、マル(まる・円・丸)に通じていきます。すべての「ワ」は、調和が保たれていて、安心、安全です。

「マル(まる・円・丸)」は「ワ」を総括し、矛盾のないこと、循環していること、バランスが取れていることなど、全体としての意味を持ちます。単純で、シンプルで、簡単な意味ですが、これを実行したり、実践したり、意識しながら生きていくのはやや困難と感じることがあるかもしれません。

「ワ」の誤解例

ここでひとつ、誤解されやすい解釈の例を上げてみます。

対人関係において、何かのトラブルが生じたと仮定します。家族でも友達でも会社での人間関係でも、どのような対人関係でも同様です。優しい人やトラブルを避ける傾向のある人などの場合、『自分が我慢すれば丸く治まる』と考え、我慢したり、必要以上の努力をしたり、偽りの言葉を発するなどをして、文字通りその場を丸く治めようと努めます。

これは、「マル」く治めるための「ワ」ではありません

自己犠牲は「ワ」ではありません。(ワ)も(ワ)も(ワ)も無視しています。(ワ)が成立せず、循環していません。自己犠牲で丸く治めることは、一方的で不自然な行為です。

(ワ)を大切に想えばこそ、自己を犠牲にする』という思考の筋道が成り立つことは事実です。しかし、これをおこなうと、次には(ワ)が乱れるにつながってしまうのです。ですから、「」が成り立ちません。

では、どのようにすれば「ワ」を保つことができるのか。それは、経験から学ぶことでもあり、直感的に感じることでもあり、愛や大切にする気持ちから気づくことでもあります。

ひとつの例としては、「(ワ)」を使い、しっかりと事実を伝えることです。理解させようとせず、強要・強制・無理をさせようともせず、ただ、事実を伝えます。「」を知らない人々や、「」を無視して『自分だけを大切に』する思想の持ち主には、その事実は伝わりませんが、それで良いのです。まずは伝えること。そして、理解されないなら、そこで『身を引くか?否か?』ということが選択肢として現れてきますが、これは、結果としての現象が現れたに過ぎません。

身を引いても、身を引かなくてもどちらの選択肢を選んでも良いのですが、「身を引かない」を選択した場合は、同じような場面に出くわす度に「(ワ)」を使って、しっかりと事実を伝えることを意識し続けます。精神的に疲れますが、自分自身のことも大切にしなければなりません。その後、相手が「」に気づき、互いの「ワ」が発展することもありますが、別れとなってお互いを尊重する結果となることもあります。

残念ながら、「」を大切に想い、「」を実践しながら生きている人は(現代では)少数です。ですから、理不尽なことが度々起こります。

さて、話を戻しましょう。

「ワ」の発展

ここまでが「」の単独的な概念です。イメージできましたか?

しかし、「ワ」の概念はここで終わりません。発展し、続いていきます。「ワ」には終わりがないのです。先に説明したように「ワ」を総括する「マル(まる・円・丸)」に続いてゆきます。

では、続けます。

マル(まる・円・丸)

例えばペンで「丸」を書く様子をイメージしてみてください。ペンを置いた場所が始点となり、中心を軸に一周すると始点に戻り、「丸」が完成します。「始点=終点」です。始まりがあり、巡り巡って始まりに戻り、終了します

「マル」は、「ワ」を総括し、矛盾のないこと、循環していること、バランスが取れていることなど、全体としての「ワ」という意味を持ちます。

1年の季節の移り変わり、輪廻転生という概念、プログラミングや複式簿記などもマルです。健康な身体(健全な血流やリンパの流れ)もマルですし、種から成長し種で終わる植物もマルです。健全な天気もマルです(残念ながら現在の天気は近似的なマルです)。グーチョキパーのジャンケンもマルです。人間を含めた全ての生命の一生(生まれてから死するまで)もマルですね。外出して帰宅することもマルということができます。

マル(まる・円・丸)のようでマルではないもの:擬似的なマル

マルのようで、マルではないものもあります。バランスが取られているように見えても、それが不自然なものであったり、利害関係だけを重要視して考えられている事物などです。

一見、マルに見えても、不自然なものやバランスを乱すものが1つでも加わったり、除かれたりすると、アンバランスを生じます。そして、そのアンバランスを矯正しようと別方向から力が加わります。すると、マルではなく近似的なマルになってしまうのです。

マルのようでマルではないもの、近似的なマルを含めていくつか例をあげると、現在の天気(気象)や、人工的につくられている生態系や、在来種の中に外来種が混在する生態系、現在の水脈や地脈、権力や支配権のみを重視する組織や団体などが挙げられます。

しかし、このような疑似マルは、不変的な疑似マルではありません。何かをきっかけに、または、超自然的にバランスが取られ、真の純粋な「マル」に戻ったり、多くの時間を費やし矯正されることで新たな「純粋なマル」が生まれたりする可能性を秘めています。

螺旋(らせん)

例えばペンで「丸」を書く様子をイメージしてみてください。始点があり、一周して終点がくれば「丸」が完成しますが、終点でペンを離しません。一段上に上がり、そこを始点として、再び「丸」を描いていきます。そしてまた一段上に上がり丸を描いていき、それを続けていくと・・・。そうです。螺旋(らせん)です。

螺旋は、太陽系の様々な惑星たちの軌道や、生物では貝殻や角、人間であれば、精神的な成長も螺旋です。広い水辺に石をひとつポトンと落とした場合、そこから広がる渦も螺旋ということができます。

「ワ」の単独的な概念がさらに発展して「螺旋(らせん)」になる、というイメージです。「螺旋のワ」とか「ワの螺旋」などと、イメージを発展し、膨らませたり、拡大させていくことができます。

球体(きゅうたい)

「螺旋」と同じように、ペンで「丸」を書く様子をイメージしてみてください。始点からはじまり、一周して終点を迎えたらペンを離します。次に、その描かれた「丸」の線上にペンを置き、そこを始点として角度を変え、「丸」の中心にアンカリングしながら先ほど書いた「丸」と同じ大きさの丸を描いていきます。途中で一度「丸」の線の上を通り、始点に戻るので、ペンを離します。再び「別の丸」の線上にペンを置いて、角度を変え、そこを始点にして丸を描きペンを離す…。これを何度も繰り返すと、それは、球体になります。

無数の「丸」で構成されている球体は、すべての「マル」や「ワ」の概念がさらに総括され、整えられています。棘(とげ)や滞りはありません。二次元の「マル」が重なり合い、調和し、整えられているイメージです。どちらかといえば、抽象的な概念であり、宇宙的で、目に見えないものを含めた「ワ」の最大のイメージで、物事を判断するときに重要な役割を果たします。

「ワ」の単独的な概念が立体的に発展して「球体」になる、と考えることもできます。「ワの立体化」とか「立体的なワ」などのイメージで、物事を見たり、解釈の軸を定めたりして、想像力や思考力を膨らませることが可能になります。

また、「ワ」から発展した球体が「ワ」に回帰すると、球体自体が「ワ」を構成する一部となり、1つの「素」となります。立体的、多次元的に見る「ワ」の循環です。

球体は、太陽系の様々な惑星たちや、精神や心や魂(物質ではないので見ることはできませんが)も球体といえます。また、水滴(しずく)や原子も球体といえそうです。

立体的な「ワ」の球体に、螺旋を複合すれば、球体のワを発展させ、膨らませたり、拡大させたりしながら、螺旋を描くことも可能になります。

「マル」と「螺旋」と「球体」

「マル」は二次元で平らです。動きはありません。横から見ると一直線の棒線です。

「螺旋」は上下や左右、斜め方向など、一定の方向に移動します。見る方向によっては、丸く見えないこともありますが、丸く進みます。

「球体」は立体です。形だけを見て捉えるなら、どこから見ても「丸」です。

「ワ」から発展して「マル」になり、「螺旋」や「球体」を形成しながら再び「ワ」を構成する素地になる。このようなイメージは、どんどん膨らませることができ、すべてが「ワ」で整えられます。

ここまでが、「ワ」の全体的な概念となります。

ここからは、泥の中で咲くものを「蓮の花」ではなく「一輪のワ」と表現していることについて説明してみます。

蓮の花と「(一輪の)ワ」の違い

蓮の花は泥の中で生育し、水面できれいな花を咲かせます。

蓮は泥の中でしか花を咲かせることができません。「ワ」は、どこにいても、どんな環境でも花を咲かせることができます泥を必要としません。泥の中でも荒れ地でも砂漠でも、水の中でも、空中でもきれいな花を咲かせます。

例えば、泥の中に咲く「ワ」の花が増えると、泥の水はどんどん澄んでいくというイメージです。荒れ地に多くの「ワ」の花が咲くようになれば豊かな大地になり、砂漠に「ワ」の花がたくさん咲けば砂漠に潤いが生まれ、大地が蘇り、豊かな大地になります。

蓮は、泥中の養分で花を咲かせます。

「ワ」は、どのような養分も必要としません

きれいな心、純粋な気持ちで生きようとするとき、どうしても周りの「自分だけ良ければいい」という人たちに利用されたり、悪意を向けられたりして、苦しさに見舞われるということがありますが、それらを養分としたり、利用したりして「ワ」が咲くということはありません。泥がなくても「ワ」は育ち、きれいな花を咲かせます。

蓮の花は、ある国を象徴したり、ある教えを意味したり、発祥の地やはじまりを意図したりする意味があります。

「ワ」は、何かの思想や思惑に誘導するものではありません

「ワ」は、概念そのものであり、それぞれの人が自身の内面に向き合うことで「ワ」を理解し、発展させ、広がり、他と自主的に繋がったりしていきます。繋がりたくなければ、繋がる必要はありません。「考え方を共有する」ただそれだけです。

「泥」の概念と意味

「泥」は、この世界の環境を表すための比喩的な表現として用いています。「ワが乱れている世界」、「ワが乱されている世界」です。

例えば、「考える人と、考えることを放棄した人が創り出す世界」「支配する人と、支配者に完全に洗脳された人が創り出す世界」など、「ワが乱れている」一方通行の世界です。

考える人支配する人がつくる「ワを乱す」常識や伝統や主義などを、考えることを放棄した人支配者に完全に洗脳された人が、何も考えずに信じ込み、服従している、というような世界観を「泥」に例えています。

「ワを乱す」人々が創り出す不自然なルールや決まり、主義、主張、善悪、強弱、貧富などの価値観や思想を世の中の常識としているような「ワになることができない不自然な常識」を「泥」といい、また、支配、洗脳、差別などを創り出す「ワになることができない不自然な環境」を「泥」と比喩しているのです。

「ワ」は、そのような泥の中でもきれいな花を咲かせます。養分を必要としません。「ワ」は、何かを利用したり、誰かを養分にして花を咲かせることはなく、自らの想いや願い、希望などの「ワのエネルギー」や「ワのこころ」が花となり、おのずと花が咲くのです。「ワ」は循環するため、汚れや穢(けがれ)を清らかにしたり、光や希望、元気や気付きを与えるようなことはあっても、奪うことはありません。

ここまでが、「ワ」の概念と全体的な世界観「泥の中に咲く一輪のワ」の説明です。ここまで読み続けられた方は「ワ」の人でしょうか。お仲間かな?

「ワ」の気付きから「ワ」の実践へ

ここまで読んでこられたあなた。あなたの人生、辛く苦しいことが多かったのではないでしょうか?もしかしたら、今が「気づき」を迎えるその時かもしれません。

理不尽なことや、人から利用されたり、見捨てられたと感じて絶望的になったとき、本来は、傷つく必要も、絶望を感じる必要もないことを知ってください。なぜなら、心の中に「ワ」を持つか持たざるかで、価値観や行動が異なって見える、ただそれだけだからです。

傷ついたとき、絶望を感じたとき、前向きな気分になれないとき、それは、「ワ」に気づくときです。あなたの潜在意識が『「ワ」と違ってるよ、危機かも!気づいて!』とあなたの意識にメッセージを送っています。

幸せなとき、満たされているとき、そしてまた、ほどほどの暮らしができているときでさえ、人は「ワ」に気づくことができません。仮に、「ワ」に気づいていたとしても、「ワ」を実践したり、「ワ」を大切に生きることができず、「ワ」を放棄することを選択して日々の生活を送っています。なぜなら、自己防衛本能や自己保存本能が働くからです。

「ワ」と「ワ」の発展から見える人生観

人間が生まれて成長する過程では、喜怒哀楽をはじめとする様々な感情を体験します。そして、人生にはいくつかの分岐点があります。これを「ワ」の始点からみていくのが「ワ」の発展から見える人生観です。

生まれた時を「始点」として「マル」の視点で見ていきます。「丸」を描きながら成長し、「丸」の完成点である「始点」に戻ったとき、最初の分岐点が現れます。分岐を選択すると、一段上に上がり、再び「丸」を描きながら成長します。そうです。螺旋(らせん)のイメージです。

その分岐点のひとつが「ワ」の選択や「ワ」の気づきです。「ワ」を実践するのか、それとも、「ワ」を無視して生き続けるのかを自分自身で判断します。

一回り成長した人生の分岐点で「何か」を選択し、成長していく。これが「ワ」からみる人生観です。

守りたい気持ち① −自己防衛本能−

自身の人生が、ある程度以上に満たされていると感じているとき、人は、「ワ」をないがしろにする傾向があります。自己防衛本能が働くからです。

例えば他者から「困った」と助けを求められると仮定します(助けを求めている人は「ワ」の人とします)。

「ワ」を大切にする場合、「どうすれば助けることができる?」と考え、できることをできる範囲で行動に移して助けます。相手の困っている状況を根底から理解できるからです。常に「ワ」を実践しているので、「ワ全体として得をする」ことを考えます。

しかし、満たされていて「ワ」をないがしろにしている場合、助けることで「自分の置かれている状況が危ぶまれたりしないか?」とか、「自分が損をしてまで相手を助ける必要はない」など、自分の立場や、自分が置かれている状況を必死で守ることを第一優先に考えて行動し、そのための努力を惜しみません。助けるフリや同情するフリはしますが、実際に自分の手を汚そうとはしません。

また、「助けることで自分が優位になる」とか「助けることで自分が聖人のようになれる」というような、「助けることで自分が何かしらの得ができる」と考える場合は、助ける行動(フリ)をすることはありますが、それは「ワ」の援助ではないため、視野が狭く、一方通行で、支配的です。

自分の所有するものや優位性を手放すことができません

「(誰かが損をするが)自分だけは得をする選択」はできますが、「(困っている誰かが、楽や安心や得などを得られるのと引き換えに)自分が損する選択」をすることはありません。所有するものを守るために必死であり、自分の個人的な「利益」を失うのが怖いのです。

自身が満たされている状況下では、助けてほしい程の『困った』を感じることができません。本人の決死の努力のもとに勝ち取った勝利の結果が、その満たされている状態であるなら、なおさらです。本当に困っている人の『困った』の意味が理解できず、失うことだけに恐怖を感じます。

人間誰もが、この「守る」本能を持っています。ある事ではとても『困った』状態でも、別のあることでは『困っていない』こともよくあることです。肉体を持って生存している以上、ある意味では大切な本能といえるため、「ワ」の実践は、ときに難しく感じるのです。

守りたい気持ち② −自己保存本能−

前項のような「助けを求められる側」ではなく、「助けを求める側」にも、「ワ」をないがしろにする「守りたい気持ち」が働くことがあります。

例えば、本当に困っているわけではないけど、「なんとなく」、もしくは「言ってみた」くらいの気持ちで他者に助けを求めるような行為です。

本当は「持っている」し、「在る」のですが、自分の所有するものが無くなったり、減ったり、失うことが嫌なので、困っているふりをして他人から奪い取り、自身の所有物が減ったり、失われてしまうことを避けようとして守ります。このような場合、残念なことに、当人は「奪っている」という実感がない場合がほとんどです。

助けを求めるときにも、「ワ」を大切にしている人が求めている助けの声なのか、それとも、「ワ」を無視している人の助けなのかの見極めが大切になってきます。

「ワ」を実践するには?

「ワ」を実践するのは簡単です。自分自身で「決める」だけです。

しかし、自己防衛本能や自己保存本能が働くため、なかなか行動を伴うことが難しいと感じる人もいるかもしれません。

「損」をしたくない。↔「得」をしたい。

「悪」く思われたくない。↔「良」い人に思われたい。

「我慢」したくない。↔「自分の思い通り」に(支配)したい。。。などなど。

「ワ」の実践は、人間の精神的な成長と考えるとよいです。人間の精神的な成長も「ワ」であり、「マル」であり、「螺旋」であり、「球体」です。喜んだり反省したりしながら生きていくのが人生です。

無理して自己を抑え込んだり、追い込んだりして「ワ」を実践するのはよくありません。本来、「ワ」はエネルギーを奪いません。無理をすると、「無理」という不自然さを補うため、自分のエネルギーを大量に消費してしまいます。これは、「ワの実践」とはいえません。

自分自身の内面的な成長とともに、あなたをとりまく全体的な世界観が「安心に満ちていく世界へと変化していく過程を楽しもう!」というくらいの気持ちで、「ワ」を実践しようと決めて、後は流れに逆らわず、その時々の分岐点では「ワ」を意識した選択をし、「ワ」を楽しんで生活するとよいでしょう。

「ワの会」ってなに?

「ワ」の会は、「ワ」の人たちが集う会です。「ワ」の人とは、「ワ」を実践して生きる人です。

共に励まし合ったり、助け合ったり、情報を共有し合ったり、または、世の中(世界)の乱れた「ワ」のバランスを取るために学んだり、行動したりします。

自身の人生をよりよくしよう、よりよくしたい。そして、環境をや世界をよりよくしよう、よりよくしたい。と願う人たちの集まりです。

「ワ」の人は少数です

「ワ」は、自分一人で実践することができますが、現在、「ワ」の人はとても少ないです。多くの人が、自分のことばかりを考え、他人の命に関わるような危険な状況でさえ「自分さえ良ければいい」「自分には関係ない」「自己責任」だと無視し続けているのが現状です。

日本は民主主義の国です。「多数の考えが国を動かす」という考え方が定着しています。多数の考え方を「常識」という場合、「ワ」の思想は少数なので「非常識」に写りかねません。また、「非常識」とまでゆかずとも、少数であるために重要視されず、脇に追いやられてしまいます。

このような環境のため、少数の考え方を持つ人々は、孤独に感じたり、寂しく感じたりすることがあります。また、「ワ」の考え方や実践そのものに『本当にこれで良いのだろうか…』と不安感や猜疑心を生じることもあるかもしれません。

しかし、はっきりいいましょう。「ワ」の人は真っ直ぐで純粋できれいな感性の持ち主です。「一人」でも「多数」でも関係なく「ワの花」を咲かせ、発展することができます。それは決して「非常識」ではありません。「ワ」の概念から考えれば、自ずと答えは見えてくるものです。

常識は変わります。民意も変わります。時代と共に変わってきた結果が現在の常識となっていることを知りましょう。これからも常識は変化してゆきます。方向性は分かりません。人々の考え方次第です。

つきつめれば、悪意を持つものがその「常識」をコントロールすることさえできてしまう、と考えることができることも知っておいてください。意図的に多数を作り上げることで民意をコントロールし、常識を塗り替えてしまいましょう、という作戦です。

ですから、「ワ」の人がたとえ少数であっても、「ワ」の心を忘れてはいけません。「ワ」を奪われてはなりません。「ワ」の人を絶滅させられてはならないのです。

残念ながら、現在は、「ワ」を乱す行為や、「ワ」を乱す考え方が主流となり、「ワを乱す考え方」が常識となってしまっています。

なんだか少し「変」な世界

昨今の日本は、なんだか少し変です(世界的に…かもしれませんが)。「ワ」の人なら皆そう感じていると思います。大勢の人々が「なんだかおかしな言動」をしていて、自分の方が変なのかしら?と感じてしまうこともしばしば。

都市伝説や陰謀論などの話ではありません。日本はもちろん、世界的になんだか変だな?おかしいな?と感じる直感的矛盾感です。根拠のあるあれ?変だぞ?という感覚です。このままじゃ大変なことになってしまう…このような危惧感です。

「ワ」の感覚を持つ人は、日本や世界の行く末に憂いを感じています。しかし、それを感じているのは、ごく少数の人たちです。声が届きません。声はかき消されています。もしかしたら、「精神を病んでいる人」というレッテルをはられ、生きにくい世界を生きている人もいるかもしれません。

「ワ」の世界と反対側にいる人たちの声は遠くまで、そして、隅々まで届きます。なぜだかわからないけど称賛されています。「ワ」を乱すことを目的とする大勢の人たちがつくる世界だからです。反面、「ワ」の者たちの存在は小さく小さくされていきます。

「ワ」の者たちがこれ以上消されたり、心を奪われエネルギー不足に陥り、病気になるわけにはいきません。危ない時代に突入してしまいました。

少数から多数へ

「日和見の法則(ひよりみのほうそく)」という言葉を知っていますか?「2.6.2の法則」などともいわれますが、ざっくりいうと、物事や対象はたいていの場合、「両極に分かれた少数と、真ん中にどちらでもないという多数で構成される」という法則です。物事や現象によって、その割合や比率が増減する場合があると思うので、私は数字を使った表現を用いず「日和見の法則」と表現しています。

現在、「ワ」の考え方で日々を生きている人は少数です。日和見の法則でいうところの両極のうちの一極ワを大切にするです。

そして、対称する「ワ」を乱す考え方、すなわち「自分のことや身近な人のことだけや損得勘定だけ」を考えて生きている「自分優位主義」(こんな言葉ありますか?)の人々は大勢いると見受けられます。日和見の法則でいうところの両極のうちの一極ワを乱し、自分優位主義を大切にするに、真ん中の多数の人が同調しているというイメージです。反論が出そうなので補足しますね。

誰かの迷惑になっていることと知りながら、自分の意見を押し通し、実行させる」とか、「誰かの手柄を自分の手柄のように申告し、自分が上位にのし上がる」とか、「ある情報を知らない人に対して重大な情報を教えてあげると称し、不安を植え付けて思考能力を奪う」とか、「他者に対して、死や老い、病などの恐怖や不安を植え付けて、自分の利益につなげる」とか、「誰かや何かを犠牲にしてその上で自分の利益を生じさせる」とか、「みんなやっているから自分も大丈夫」など、「ワ」を乱す考え方で生きている「自分優位主義」の人の考え方です。

かつては、「ワ」を乱す考え方をする人は少数だったと思われます。時代の流れなのか、それとも何か他に別の理由があったのかはここでの分析や明言を避けますが、真ん中の「その他大勢」の人たちが「自分優位主義」を信奉し、いまではとても多くの人々が自分自身で考えることを放棄し、視野を狭めて「自分と自分に近しい人たち」だけが利益を得られれば良い。という考え方を採用しています。

本当にそれでいいのですか?

「ワ」を乱す危険性

本当にそれでいいのですか?

私は、そう問いたいのです。「自分と自分に近しい人たち」だけを守れば、そして、そのために「自分の利益」だけを守れば、いつまでも、健康で豊かな暮らしが続き、幸せが継続すると信じていますか?

「自分の利益」を守るために戦えば、安心した生活が送れると本気で思いますか?

2つ例をあげてみます。

自分の立場だけを守るのは「ワ」を乱す行為です

例えば、社会保障問題では端的に「若者を優先的に大切にする」か、「お年寄りを中心に保障する」かなど対立しているような主張があります。

人は必ず老います。生まれた以上、必ず死を迎える時が来ます。病気や怪我で自由が効かなくなることもあるでしょう。「自分」や「自分に近しい人」の健康状態が危ぶまれるとき、自分だけでその人を守ることが難しくて、誰かに助けてほしい、手伝ってほしい、と切実に思うこともあるでしょう。

「ワ」を乱している本人が困った環境に置かれて初めて、『あぁ、助けるってこういうことか』『助けてほしいってこういうことだったのか』と気づくのでは遅いのです。そのような状況で、周りから見捨てられ助けてもらうことができない、となったら、どう感じますか?

これは、「自業自得」や「自己責任」で片付けて良い問題ではありません

行く道と来た道です。「ワ」を大切に生きる、とは「行く道も」「来た道も」ひとつの「ワ」の中の道である、ということです。どれか1つでも欠けてはしまうと存在することができない「人生」という「ワ」なのです。

本来は、「赤子も、子どもも、青年も、中高年も、老人も、死する直前も、すべての人が平等に善きにはからわれる」のが最善です。人は生まれ、いずれ必ず死にます。病気になる人もいるでしょう。怪我をして働けなくなる人もいるでしょう。子育てに専念することもあるでしょう。老いを感じることもあるでしょう。また、寿命は人それぞれです。皆が同じ年齢で人生を終えることはありません。

お年寄りを差別する若い世代の方々に伝えたいのは、「あなた達もいずれは老いていくのよ。行く道よ」ということ。そして、ご年配の方々に伝えたいのは、「あなた達もかつては若者で、通って来た道よ。批判するのも利用するのも筋違いよ」ということです。

皆、自分の利益だけを追求しているのです。「今の自分」の利益だけを求めるので、過去や未来を見ようともしなくなります。それは「ワ」を乱す考え方だと知らなければなりません。

戦いは「ワ」を乱す行為です

「自分の利益」を守るために戦うことは正義ですか?

戦いとは、勝者と敗者をきめることです。互いに戦うときめた戦闘は、必ずどちらかが勝者となり、必ずどちらかが敗者となります。基本的に引き分けはありません。引き分けにするために何かしらの「約束」をする場合もありますが、優位性が生じることもあり、「ノーカウント」となることはほとんどありません。そして、戦いの過程においては何かしらを必ず失っています。失われるもの、それは、巻き込まれた人々の心や身体や命、環境など様々です。

勝てば「利益」を得られますか?だから戦いますか?

負けることを考えていますか?負けることは想定外ですか?

1対1で戦う場合、必ずどちらかが負けます。『勝負は勝つことを考えるのみ!負けることは想定しない!負けることをイメージしてはなりません!』というような精神論がありますが、だからといって「絶対に勝つ」という保証はありません。互いがそう思っているのですから…。

誰かや何かを犠牲にしてまで、戦わなければなりませんか?

戦いは「ワ」を乱します。「ワ」の概念で考えれば、「戦い」は、「マル」を描かない一方的な考え方なので、いずれ破綻します。視野を狭めた考え方のままでは、いつか必ず行き詰まるのです。「ワ」や「マル」「螺旋」や「球体」的な考え方を用いなければ、今後、人類も地球も発展することはないでしょう。

このまま「ワ」が乱されるようなことが続いていけば、日本が、人類が、地球が、他にも様々なものが滅びてしまうと懸念しています。

「ワの会」が考える未来像

「ワ」の人が増えて、皆が、自然を壊さず、安心して楽しく平和で幸せに暮らせる世の中にしたい。これが「ワの会」が考える未来像です。

このままでは、自然を破壊し続けてしまう。

このままでは、安心して暮らせる保証がない。

このままでは、みんなが楽しく生きることができなくなる。

このままでは、不幸な人がますます増えていく。。。

このままでは、支配され、搾取されて、自由も、幸せも、選択肢も、心も、健康も、安心も、豊かさも、いろいろなものが奪われてしまうかもしれない。。。

このような「憂い」の心から、極少数の「ワ」の人々が声をあげて、日和見の法則でいうところの「その他大勢の人々」に対して「ワ」の大切さを伝えていきたいと思ったのです。

そして、少数の中でもくじけず「ワ」を大切に生きている人たちと繋がって、楽しく、螺旋を描きながら、ときにつまづきながらも一緒に向上していきたい、そう思ったのです。

かつて平和に暮らしていた「あの時代(ワの時代)」を「あの国(ワの国)」をとりもどしたい。そう思っているのです。

泥の中で咲く「ワ」の花の本当の意味

「ワ」の思想は、損得勘定でいうところの「得」を得る思想ではありません。ましてや利益優先で成功してきた人々にとっては、「ワ」の考え方で生きることに拒絶感を感じることがあるかもしれません。

ですから、声を上げても、なかなか届かないでしょう。それこそが、「泥の中に咲く」なのです。一人で凛と咲き続ける姿が『一輪の「ワ」の花』の姿なのです。

「ワ」の思想を伝えて迷惑がられたら、無理して伝える必要はありません。ただし、「ワを乱す人」に利用され続けないでください。「ワを乱す人」は、「ワ」の精神で生きていないため、あなたが困ったときにあなたに寄り添うことはありません。『お互い様』はできません。できて『寄り添うフリ』をするだけです。利用されていることに気づきましょう。

「ワ」の強みは、安心です。発展です。バランスです。楽しさです。滅びません。奪いません。与えます。

ですから、「ワ」を乱す人に、媚び、へつらう必要はありません。「ワ」の花が、泥になったり、腐敗して泥に取り込まれたり、泥に飲み込まれてはならないのです。

戦う必要はありませんが、自身の「ワ」が乱れて「泥」になってしまってはいけません。自信をもちましょう。

「ワの会」へのお誘い

本来の姿へ。まずは、日本をとりもどし、そして「ワ」の心で日本を守りたい。ワの会は、そのような「ワ」を大切にする人たちの集いであり、憩いの場です。そして、「ワ」を広げ、皆が安心して暮らせる環境を創り、守りたい。そのように考えています。すべてを「ワ」で考えて実践し、行動する会です。

「泥の中できれいに咲いている」つもりでも、「泥の」環境下では、苦しくて、悲しくて、孤独を感じてしまうことも生じます。ですからお誘いします。

共に生きませんか?

「ワ」のこころを持つ、同じような価値観の人が集まって、小さなコミュニティーをつくり、時に励まし合ったり、時に協力し合ったりしながら輪を広げ、まずは、「ワ」の私達自身が元気とパワーをとりもどしましょう。

未来的には、「ワ」が広がり、永久に続く自然と富、安心で安定している環境で暮らすことができる「ワ」の世界に回帰し、皆が幸せに暮らす。このようなビジョンを描いています。

世の中の情勢をみて、「これで良いのだろうか?」「このままじゃ世界は…日本は…」など先行きを懸念しても、「自分に何ができるのか」「どのようにすれば世界がよくなるのか」「どのようにすれば未来に希望をもてるのか」などが分からず、先行きの心配ばかりが膨らみます。

そのようなときに、「ワ」のこころを持つ人が集まれば「ワ」が広がり、おのずと日本をとりもどすことができる、そう信じています。本来の純粋な真の日本「あの国(ワの国)」のことです。「あの時代(ワの時代)」のことです。

真の日本「あの国(ワの国)」とは、話が長くなってしまうので別の記事で書きますが、戦前の日本とか戦後の日本という意味ではありません。また、右派や左派、保守やリペラル、日本国憲法の改憲や護憲、大日本帝国憲法回帰などの思想からみる「日本」という意味でもありません。全く異なる概念なので、誤解なさらないようご注意ください

入会についての詳細は、「ワの会」の種類と入会方法を確認してください。

おわりに

「ワ」の概念と「ワの会」について、様々な始点からお伝えしてみました。言葉を使って表現しましたが、言葉だけを「意味」としてとらえて、枠を決めつけないように気をつけください。ゆらぎ、繊細さ、自由さ、身軽さ、自分らしさなどが大切です。

ぜひ、あなた自身の「ワ」を見つけ、あなたの心の中で育てた「ワ」を咲かせてください。そして、「ワ」と繋がってください。

一緒に咲きましょう

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