「ワ」についての記事を書いていると、『誤解を生じる説明かもしれない』と思うことがあります。
「ワ」の思想は、何かや誰かを批判する目的をもちません。「ワを大切に生きている」ただそれだけです。しかし、それ故に誤解を生じることがあります。誤解を生じる恐れのある事柄についてはしっかりと「違い」を明記することが最善だと思っています。
例えば「共に」という言葉もそのうちの一つです。「共」がつく主義に「共産主義」がありますが、「ワ」と「共産主義」の考え方を同一視した場合、「ワ」の解釈が間違った方向へ進んでしまうという懸念から、このページを作成してみました。
「ワ」の思想からみる「共に」と、「共産主義」の思想とは異なります。まずは知識として「共産主義」という言葉の意味を知り、そこから「ワの視点でみるとどうなるのか?」という感じでその「違い」を書いてみたいと思います。
共産主義とは?
まずはじめに、「共産主義」という言葉の意味を調べてみました。
以下のように書かれています。
財産(生産手段)を私有ではなく共同体による所有(社会的所有)とすることで貧富の差をなくすことをめざす思想・運動・体制。
ウィキペディア日本語版【共産主義】から一部引用
ちなみに、「共産主義」の対義語を調べてみると、「共産主義」の対義語は「資本主義」でした。
これらの説明と対比しながら「ワ」の思想との違いを説明してみます。
「ワ」とは?
まずは「ワ」の思想を知らない方のために「ワ」を簡単に説明しておきます。
「ワ」とは、物事の捉え方や考え方の概念を表した「ワの会」独自の思想で、「ワ」「マル」「螺旋」「球体」の考え方で全体をみる方法です。
世の中のバランスが崩れていると感じる世界で、『どうしたら皆が幸せに、豊かに暮らせるようになるのか』そして『皆の意識が変われば世界も変わる』という考えを一つにまとめてみたら「ワ」という考え方にたどり着いたという「ワの会」オリジナルの概念です。『世界をよくして、自分も安心して幸せに暮らす』ための方法が「ワ」です。
「ワ」については、以下の記事で詳しくまとめているので、そちらを参照ください。

1:「財産」に対しての考え方
それでは、先ほどの「共産主義」の意味に書かれている言葉について、それぞれ比較しながら見ていきたいと思います。まずは「財産」に対しての考え方です。
共産主義では、「財産」は「社会的に所有する」としています。
それに対して「ワ」の思想では、財産についてはいつくかの少し複雑な考え方をもち、一概にはいえません。そこで、「財産」について、いくつかの項目に分けて書いてみようと思います。
金銭的な「財産」
「経済的に豊かになりたい」「もっとお金がほしい」だれもがそう思います。私も例外ではありません。金銭的価値を持つ財産は、いまを生きるために必要であり、また、将来生きていくためや豊かに安心して暮らすために所有したいと思うものです。その『気持ち』を否定することはできません。
しかし、「ワ」の視点でみると、現在の金銭的な「財産」は、仕組み上「ワ」が乱れているように感じます。例えを一つ挙げると「お金のしくみ」です。残念ながら現在のお金のシステムは、「ワ」が「マル」になって「螺旋」や「球体」を描くような「ワ」のシステムにはなっていません。
ですから「ワ」の視点で見た場合の「ワが乱れている財産」を単純に「○○が所有すべき」のような発言はできません。その発言自体が「ワを乱す」発言になってしまうからです。もし仮に、乱れていると感じている金銭的財産の所有について「ワ」として考えを伝えるとすれば、以下のようになります。
「金銭的財産」の所有については、「ワ」を大切にした考え方で財産を所有してください。ということです。
精神的な「財産」
「財産」という言葉は、金銭的価値のあるものとしての財産の他にも、経験や資質、学力などの内面的、精神的財産もあると考えています。「資本主義」的な考え方で言えば、「経験」や「精神的」な財産や「学力」なども「お金(財産)」に替えることができるため、それらの『内面的な要素まで個人所有が認められない』となると、ワの思想で言うところの「ワを乱す」に該当してしまいます。
さらに、極端なことを言ってしまえば、個々の『内面にある価値(気持ち)』まで、すべてを社会的に管理されてしまうのでは?という心配や懸念が浮かんでくるのです。いわゆる支配です。
「ワ」の思想では、人それぞれの気持ちを管理しませんし、また、気持ちを管理されることもありません。「ワを大切」にしても「ワを乱し」てもそれぞれ個人の自由です。
考え方や気持ちは管理されませんが、「ワを大切にする人」と「ワを乱す人」の区別はします。「ワの人」が集い、「ワの会」になるとき、「ワ」の人たちの精神的な繋がりは「ワ」が「マル」になり「螺旋」や「球体」となって発展する可能性を秘めているため、「ワの人」が集まると、大きな想像力やその他の価値を生み出すことに繋がっていきます。その「ワ」には「ワを乱す人」が入ることはできません。
このようなことから「ワ」では、「ワを大切にする気持ち」と「ワを大切にする人たちの気持ち」も精神的な財産と考えています。そしてその精神的財産に対して「所有」や「管理」という概念はもちません。あくまでもそれは、皆で共有することができる「気持ち」ただそれだけです。
権力的な「財産」
権力的な価値も「財産」として挙げられるのではないでしょうか(先の説明文の「財産」を権力者)に変えてみてください。
例えば「社長(会社)を私有ではなく社会的所有とする…(略)…」
「校長(学校)を私有ではなく社会的所有とする…(略)…」
「地主(土地)を私有ではなく社会的所有とする…(略)…」
総合すると、「権力者(権力)を私有ではなく社会的所有とする…(略)…」
「ワ」の視点では「権力」そのものが「ワを乱す」ため成り立たないと考えますが、「共産主義」では、これらの権力は社会的に所有すると考えることができます。
「社会的所有」とすることで一人ひとりの貧富の差がなくなるということですが、その「社会的な集団」を管理、統率する人が必要です。「私有(個人所有)」の場合は個人が管理しますが、「社会的な集団」の場合は、その「社会的集団の中にいる人」が管理することになり、単に「個人」から「社会の誰か」へ入れ替わっただけと考えることができます。
これは、社会的な集団の中に属する「人」が取りまとめるということです。
人間は皆、「自己防衛本能」や「自己保守本能」を持っています。社会的集団の中にいる「人」のすべてが、自分自身を律して、全体を見て、平等にとりまとめることができるのでしょうか。管理する側の「人」が周囲(民間人)よりも多くの「報酬」などの「財産」を得ようとしないと確信できるのでしょうか。そのように考えると、結局は「ワが乱れたまま」と言わざるを得ません。
「ワ」では、「権力」はなく(権利もなく)、ただ「ワ」という状況(環境・システム)の中に「ワの人」が属するという考え方をするだけです。
ここでひとつ、少しだけ脇道にそれてしまいますが大切なことを書いておきたいと思います。我が国の最高法規「日本国憲法」についてです。
重要:日本国憲法に書かれている「権力」とは?
執筆中にふと気づいたので、大切なこととしてここに記しておきます。
忘れ去られそうな権力の一つに、日本国憲法の「基本的人権」があります。「国民主権」です。一般的には「権利」と言われていますが、「主権在民」のことです。
(憲法の説明はここではしませんが、1947年に発行された『あたらしい憲法のはなし』にわかりやすく書かれています。当サイトにも「主権在民」についてまとめたページがあるので参照してください【あたらしい憲法のはなし 4.主権在民主義】)
現在、日本国憲法について、「憲法を変えるべきだ!」「憲法を変えちゃならない!」など、様々な意見が出されていますが、憲法を変えるか否か、そして、変えるなら、どのように変更するのかを考えるのは、私たち日本国民です。
現在の日本では、主権は「国民全体」が持っています。(【日本国憲法の「前文」と「第1章_天皇_第1条」】:リンク先のページは現在、辞書の引用について著作権の不明点があるためパスワード保護中です)
忘れ去られてしまいそうな流れを感じますが、本当は「国民」のひとりひとりが日本という「国」を治める力を持っているのです。
法的に、日本という国は、権力者が独裁で「国を治める」国ではありません。いろいろな政党から、様々な「憲法改正案」が提示されていますが、本来は、政党や議員さんが率先して憲法を変えるしくみではありません。
私達日本国民は、雰囲気やトレンドに流されることなく、そしてまた、表現の魔法や、言葉じりなどに惑わされることもなく、一つ一つの言葉の意味や文章としての表現の成り立ちなどを、面倒でも一語一句、しっかりと「何が書かれているのか」「何がいいたいのか」「どこに向かおうとしているのか」などの意図を想像し、具体的にイメージしながら、日本の未来を私たち日本国民がしっかりと考えていく必要があると考えています。
「ワ」の視点でみた日本国憲法については、別の記事でまとめる予定です(公開日は未定)。
歴史的な「財産」
「財産」という考えは、時代を遡るといつから始まったのでしょうか。「財」を「産み」、そして、「貯める」。歴史的に見ると「財を貯める」という貯蔵の技術が発展・発達したことで争いが起こり、奪い合う時代になっていきました。「貯蔵」は現代では「貯蓄」です。
遡ること「縄文時代」には貧富の差がなく、農耕が発達するにつれて「米を貯える」ことができるようになり、その「米」を奪い合い、争いや貧富の差が生まれたと言われています。
このようなことから考えると、(現代では綺麗事の思想になってしまいますが)個人的に「財を貯める」ということ自体が、奪い合いや争いを生む「ワを乱す」行為といえるのかもしれません。だからといって、今、それらを否定してしまうのは危険です。それこそ「現代のワ」を乱すことに繋がってしまいます。
これからの重要な課題だと思っています。
そもそも「財産」
そもそも、「ワ」の思想では、先に述べたように「財産」は「ワ」が乱れている状態だと認識しています。ですから、「財産」に対しての考え方や在り方を見直し、「ワが整っている財産」とは何か。どのようにすれば「財産のワが整うのか」などを、これからの時代を生きるための重要な課題の1つだと捉え、「ワの会」の皆で意見を出し合っていけたらいいなと考えています。
現代の社会で生きるためには「金銭」が必要です。将来のために「財産」を貯める必要性もあると思います。ただ、財産を「お金」としてみると、それは「奪い合い」に通じ、その「奪い合い」は争いや搾取などの利害関係が生じるため、そもそもが「ワ」に当てはまりません。【お金の仕組みについての記事を執筆予定です】
「お金が不要」と言いたいわけではありません。「お金」は「何かと交換できるもの」なので、今を生きていくために必要なものです。しかし、現在のままのシステム(仕組み)では、永久に「ワ」を描き続けることはできないことと、それにより、貧富の差が広がり続けることを「ワ」では危惧しているのです。
正直に書きます。『争わないでよい「ワ」のお金のシステムがあればいいな』と。そう考えるとき『貯める=所有』は、誰のものであっても「ワを乱す」ことにつながると考えているのです。「滞る」という意味もあるかもしれませんが、「流通させれば良い」という考え方も、循環こそしますが「ワを乱している」と考えています。だからといって、どうすればの手段はまったく見当がついていないのですが・・・。
「財産」についての考え方は、改めて別の記事で書く予定です(掲載日は未定)。
2:「生産手段」に対しての考え方
次に「生産手段」に対しての考え方です。
共産主義では、「生産手段」もまた、「社会的に所有する」としています。個人所有は認められないようです。
それに対して「ワ」の思想では、「生産手段」のもととなる「労働」という考え方自体が「ワを乱す」と考えています。(綺麗事になってしまいますが)「”労働”によって”何か”を生産する」その考えこそが「”管理者”と”被管理者”」「”支配者”と”被支配者”」のように捉えられてしまうのです。
ですから、「管理者」や「支配者」を「誰か」から「誰か」へ変更をしたところで、その次の「誰か」が結局は、管理したり支配的な行為を行うことになりかねません。それでは本末転倒です。
「労働」とはなにか
「財産」の考え方と同じように、「ワ」にとって「労働とは何か?」は最重要課題です。
「労働」は、資本などの「財産」と深い関係があります。「働くとは何か」「何のために働くのか」、または「どのように働くのか」を「ワ」の思想で考えるとき、現代の「様々な働き(労働)」は「ワが乱れている状態」と考えます。
「ワを大切にした労働とは?」を考えるとき、「ワ」では、「労働」や「働く」とは全く別の概念になることが予想されます(まだ完全には観えていないので現時点での明言は避けます)。
そうはいっても、現時点で「ワ」からみた「労働から成る生産手段」としての見解を記しておく必要があると思います。「生産手段」の個人所有は、今後、最低限必要になるものだと考えています。自分で考えて、自分で選択し、自分で生産することは、これからの未確定時代を生きるためには必須であり、また、自己肯定感にも繋がるため、とても大切なことだからです。
ただし、個人所有が必要と言っても「独占」という意味ではありません。「独占」は「ワを乱す」行為です。「独占じゃなければ社会的所有?」といえば、そうでもありません。
「財産」という目的がなければ、独占の必要はなくなると考えているためです。
「生産手段」の目的
そもそも、「生産手段」の目的はどのようなことでしょうか。それはほぼ「生産手段」によって得られる「生産物を得るため」だと考えます。生産物は「お金」などの価値あるもの、すなわち「財産(利益)」です。
ですから「財産を得る」という目的がなければ、「生産手段を誰のものにするか」などと争う必要はなくなると考えています(歴史的な「財産」と同じ考え方です)。
もちろん、現代の世の中で「財産を得る」目的を失ってしまっては、生きていくことさえできません。しかし、そのシステムや考え方こそが「ワを乱している」と認識しておきたいのです。その認識がなければ、何も始めることができません。何も気づくことができません。そもそも「財産」や「生産手段」の考え方の前提が異なるのです。
そのものの考え方が「ワを乱している」と考えているため、「ワ」として言葉にするのはとても難しいのですが、「資本主義」の考え方とは異なるということだけははっきりと言うことができそうです。
もちろん、「共産主義」の「社会的に所有」という考え方とも異なります。
しいていえば、「ワ」の思想は様々な思想から独立していて、「生産手段」の定義自体が例えば「労働者」などの関係をなしません。
また、「生産手段」が「奪い合い」になってしまっては、誰かが誰かの富を奪うため、皆すべてが豊かになることもできません。根底となる考え方として「ワ」を大切にするか否かで社会の方向性(未来の世の中)が変わってくるので、「ワを大切にする」ことを目的とした考え方が必要なのです。
「生産手段」として考えるなら、「ワを大切にした生産手段」が重要だということは言うまでもありません。
3:「所有」に対しての考え方
次は「所有」についてです。
共産主義では、生産手段を含む財産を「社会的所有」としています。社会的というのは「国」と捉えてもよいのかもしれません。そのため、財産や生産手段の個人所有は認められないようです。
それに対して「ワ」の思想では、「所有」という概念自体が「ワを乱す」と考えています。「所有」とは「持つ」だけでなく「持っている権利」のことです。
とはいえ、現代の社会では「財産を所有する」という概念のもと様々な生活が成り立っているので、無視したり、避けて生活することはできません。
そこで、「社会的所有」「個人的所有」に分けて「ワ」の視点で書いてみたいと思います。
社会的所有(共同体)
共産主義では、「貧富の差をなくすために」という目的のもと、「社会」という共同体が所有すると説明されています。
「貧富の差をなくす」ことは「ワを大切」にする行為だといえます。しかし、「社会という共同体」とはどのようなものかを改めて考える必要があると思うのです。「社会」は人の集まりでできた集団です。その集団を共同体として社会的に所有したとしても、その社会的集団もまた管理を必要とし、その管理をするのは、人であり、「誰か」です。
「財産を社会的に所有する」ことと「貧富の差がなくなる」ことは同じではありません。結局は「”管理者”と”被管理者”」に分かれると考えられるため、「被管理者」という集団の中では貧富の差がなく、平等にみえたとしても、「”管理者”と”被管理者”」を含めた全体で見たときに「”管理者”と”被管理者”」が平等になっているかどうかは「被管理者」側からはみえません。
人間には「自己保守本能」や「自己防衛本能」があるため、自分が有利な立場にいる場合はそれを失いたくないと思い、守りたいと思うものです。人間として生きている以上、仕方のないことだと思いますが、なかなか難しいところです。
個人的所有
「所有」という概念自体が「ワを乱す」と考えているため、資本主義のような「個人的所有」がよいともいえません。(「個人的所有」については【資本主義】のページで詳しく書く予定です)
「共産主義」の思想が生まれた原因の一つに、『「個人的所有」があるから不平等が生まれる』という考え方があるようです。「”持つ者”と”持たざる者”」「”経営者”と”労働者”」のような関係の中で、「持たざる者」や「労働者」は、働いても働いても貧しく、豊かになれなかったのかもしれません。
(記憶が曖昧なので表現に誤りがあるかもしれません。ごめんなさい)
だから、「平等」を掲げた主義が生まれたのでしょう。公共性をもつ社会的な所有とすることで公平が保たれると考えたのかもしれません。「ワ」の考え方からすれば、「ワを乱す人」に支配や搾取をされていて、自分たちの権利を主張したかったのかもしれません。
また、先の「歴史から見る財産」でも少し触れましたが、財産を個人的に所有する場合、「奪われないように守ったり争ったりする」ような出来事が起こる可能性が生じます。原因は「財」ですが、争うのは「人」と「人」です。人が集団になれば、「財」を原因として社会と社会が争うことにも繋がりかねません。
「ワ」の思想では、理想として『財産(お金)のシステムを「ワのお金のシステム」に変えられたらいいな』と思っています。ワの人が増えて、皆で意見や案を出し合ったら「ワのお金ができるかも」そう思っています。
4:「貧富の差をなくす方法」についての考え方
次に「貧富の差をなくす方法」の考え方についてです。
共産主義は、貧富の差をなくすめために財産を社会が保有します。
それに対して「ワ」の思想では、貧富の差をなくすめために皆で協力します。「皆で」とは、個人個人が集まった総合的な意味としての「皆」であり、「皆」は個人ひとりひとりの集まりです。(民主主義の考え方とも少し異なります)
とても似た説明のように感じるため、もう少し説明を加えてみます。
社会が財産を保有したら貧富の差はなくなる?
「ワ」では、共産主義の「貧富の差をなくすために、社会が財産を保有する」という手段には、いくつかの課題があると考えています。
「分け方」の課題
1つは「分け方」です。「完全なる平等」で分けるのか、それとも「公平」に分けるのか。また、各人の働きや労働力、資格などにはプラスアルファで応じるのか。そして、その分け方は、その社会に所属する全員が納得する分け方になっていて、それにより貧富の差がなくなったとすべての人が感じることができるのか、などです。
「管理者」の課題
もう1つは「管理者」です。「権力的な財産」の項目でも書きましたが、「社会的集団」を管理、統率するのは、社会的な集団の中に属する「人」です。その「社会的集団」を管理、統率する「人」が、労働者より多くの「財産」を得ようとする可能性はありませんか?優位の立場にいる人が「自己保守」や「自己防衛」、「自己の利益」を追求する懸念が残されると考えられます。
「総量(生産量)」の課題
そして次に「総量」です。「全員で生産して得た財産」があり、それを「完全な平等(等分)で分配」すると仮定します。例えば、”100人”で得た財産”1000″があり、それを等分して、一人”10″ずつ分配するということです。しかし、生活するには1ヶ月”15″かかるとします。一人あたり1ヶ月”5″足りません。社会全体で不足するような場合はどうするのでしょうか。
「総量」について、別の視点でもうひとつ例を挙げてみます。道路などの公共の場所の修繕費用は社会として当然準備しておかなければなりません(資本主義でいえば税金の部分)。となれば、上記のように単純な分配方法でさえ、社会的な修繕費用などの準備金を控除してからの分配になると考えられます(例えば、”100人”で得た財産”1000″があり、修繕準備金として”150″を控除後に等分すると一人あたり1ヶ月”8.5″となるというイメージ)。
社会的に所有している財産や生産手段で、すべてを利益として出さなければならない、と考えることができ、社会的に生産手段などを所有するということは、「社会」に大きすぎる負担がかかるのではないでしょうか。
感じ方
次に「貧富の差」そのものの感じ方です。「ワ」では、「貧富の差」は人それぞれの主観的な部分が多いと考えています。同じだけ持っていても、貧しさを感じる人もいれば、豊かさを感じる人もいるのです。「人の価値観」「人の気持ち」は人それぞれです。一概に「○○だ」と言い切ることはできないため、全員が満足する「貧富の差がない状態」をつくる難しさがあると考えます。
システムの見直し
「貧富の差をなくす」ということを考えたとき、これは「ワ」の仮説ですが、お金(価値)のシステム自体を見直す必要があるのではないかと感じています。簡単なことではないかもしれません。しかし、今のままのお金のシステムでは、貧困を生み、争いを生み、ひいては病気や絶望感までも生み出す危険性を秘めていると強く感じてしまうのです。(このように感じる根拠については【資本主義】や【お金の仕組み】を掲載予定です)
「お金」のシステムを学んでいると、『ん?なんで?』と思うことがあります。「ワ」でいうなら「ワが乱れている仕組み」と感じるのです。「ワの乱れた仕組み」である「お金」が世界に流通し、運用され続けていたら、「ワの乱れ」が加速されてしまうと懸念しています。
ですから、貧富の差をなくすためには、お金のシステムを見直したり、(「所有」を禁止するのではなく)必要なときに必要なだけ使える仕組みをつくったりと、根本的な見直しが必要だと考えます。(そのため、ワの人が皆で意見を出し合っていきたいと考えるのです)
とりすぎるから無くなるし、無くなるから作らなければならなくなる
例えばで恐縮ですが、木にたくさんの実(食用)がついているとします。この実を現代ではすべて収穫し、販売します。木の実がすべてなくなるので、また実をつけるために育てます。早く育てたいため薬を使ったりもします。そして実が熟れば、再び収穫して販売します。これの繰り返しです。
これは、「共産主義」でも「資本主義」でも「生産する」という意味では同じような気がしていて、どちらも「ワを乱す」と考えます。(自然を破壊するという視点ももちますが、それは別記事で)
「ワ」の考え方では、木にたくさんの実がついていても、食べられる量だけとればいいと考えます。全て獲って貯えようとするから、取り合いになったり、奪い合いになったり、争いになったりして、争わない人は「何も取れない」ため、貧しくなるのです。奪った人は、どんどん豊かになるのです。
きっと、そこが「貧富の差」の課題だと思います。だからといって、現代のこの世の中で、『自分が食べる分だけ収穫しましょう』といっても、皆が我先に収穫してしまえば、取りそこねてしまいます。結果、貧乏まっしぐらです。
上の例は「木の実」ですが、これは工場で何かをつくって販売し、利益を出すことも同じです。(資本主義で詳しく書きますが、家電などは壊れれば新しいものを購入するため、作り続けます)
「ワ」が大切
貧富の差をなくすためには「ワ」の考えが大切だと考えます。
貧富の差をなくすために、一人ひとりが集まって「案」や「意見」「気持ち」を持ち寄り、皆で協力し、皆で考える。その皆はすべて「ワを大切にする人」の集まりです。
「ワを大切にする人」の集まりなら、誰かから奪ったり奪われたり、騙したり騙されたりなど、「ワを乱す」ことがないため、バランスの取れたシステムが構築できるのではないでしょうか。
「ワ」を大切に生きる人が増えたらいいな。と願っています。「ワ」を大切に生きる人が増えたら世界はもっと良くなるのにと考えています。
5:その他の雑学
最後に、「共産主義」を知るに当たり、ちょっとした豆知識と、それに関しての「ワ」の考え方をメモしておきます。
暴力的なの?
共産主義は暴力的と言われることがあるようです。暴力で改革(革命)を起こすような考え方のようですが、「ワ」では、いくら正しいことを主張する場合でも、暴力は「ワを乱す」行為なのでおすすめできません。暴力ではない方法を「ワ」の思想で考えて『誰にでも分かるように主張の全体像を教えてくれたら嬉しいな』そう思います。
といっても、共産主義が本当に暴力的なのかどうかは分かりません(「ワ」では、決めつけてレッテルを貼ることはしません)。カール・マルクスという人の時代の話や、昭和初期にそのようなことがあったと説明されていることがありますが、「ワ」の思想ではその真実性や解釈に対して擁護もしませんし、否定もできませんし、掘り下げて調べる予定もありません。
「ワ」の視点で「暴力」は「ワを乱す行為」とだけ、ここでは明言しておきます。
共産主義が成功している例はない
どうやら、共産主義が成功している事例(国)はないようです。少しびっくりしてしまいました。
ただ、我が国「日本」が「社会主義国家」として成功していたと言われることがあるようです。(【社会主義】については別記事を作成する予定です)
また、気になる著書を発見したので紹介します。「なぜ共産主義が日本で成功したのか(ダグラス・M・ケンリック著)」です。読んだことはありませんが、新しい視点を知ることができるかもしれません。
気になる方は調べてみてください。
嫌われているの?
「共産主義」はあまり良く言われていないことが多いような気がするので少し調べてみました。理由はだいたい以下のようです。
- 「独裁」で「国家統制」が強く、自由が制限される(自由がない)から
- 生産手段や価格設定などを国が管理するため、受給などの市場の流れをうまくつかめないから
- 労働者のやりがいがないから
- 宗教や私有財産に反対しているから
- 権力や特権を失いたくないから
共産主義が成功した事例がないため、過去の失敗例から「共産主義」を判断せざるを得ないのかもしれませんが、「共産主義が成功した例がない」ということは忘れずにいたいと思います。
嫌われているのは「共産主義」そのものではなく、上記の「嫌われる理由」を嫌っているのかもしれません。「ワ」では、決めつけてレッテルを貼って嫌うような判断をしません。ただ「○○主義」は『そういう考えを主張する主義なのですね』と思うだけです。
まとめ
「共産主義」を「ワの思想」でみてみました。ちょっと難しかったです。
価値観や思想の違いにより、一つの言葉でも、人それぞれ定義や意味が異なることがあります。それが一つの文章となったらなおさら、文章全体の解釈や、受け取る意味合いまでが変わってくるものです。
共産主義の説明に含まれている「財産」「生産手段」「所有」「貧富の差」という言葉について、ワの会としての解釈と意味を書いてみました。
共感できる部分と、相反する部分があり、それらを「ワ」の思想で書くのは表現の難しさを感じました。
おわりに
「ワの会」は「ワを大切にする人」の集いの会です。ワを大切に生活することは一人でもできますが、ワの人が集えばさらに楽しく、世の中まで明るくなると思っています。ワの会の仲間になりませんか?

