私たちは魂です。
世の中には様々な考え方、価値観を持った人々がいますが、すべての本質は同じ「魂」です。
同じ本質を持った魂が、全く異なる人生を送り、満たされている人々と苦痛を感じながら生きている人々がいるという現実があります。
満たされているときには何も感じることがなくても、いざ、苦痛を感じた時に人々は思います。
「なぜ生きているのだろう」
「なぜ生まれてきたのだろう」
と、生きる意味を模索し始めるのです。
本質の同じ「魂」なのに、満たされた人生を送ることができる人と、不幸のどん底のような人生を送らざるを得ない人がいる理由はただ一つ。「この世界が歪んでいる」からにほかなりません。
不調和が表れていると言い換えることもできます。
そのため、順風満帆な人生を送る人がいる半面、人々や世界の歪み…すなわち不調和の表れにより苦痛を味わう人が現れるのです。
苦痛を味わい、不幸を感じながら生きる人には、魂の使命があります。世界の歪みに気づき、その歪みをなくすために行う使命があるのです。
私たちは「魂」です。
魂に上下関係はありません。優劣もありません。ただし、魂の仲間たちがいます。そして、魂の仲間たちと別の魂の間に派閥などは一切ありません。
ですが、地球で人間として生きると、上下関係が生まれ、優劣の感情を生み人を見下げ、仲間以外を排除したり、派閥間の争いを生じたりします。
魂はそんな人間の体の内側に存在しています。
人間の体の内部に魂があるとはいえ、魂自らが地球上での上下関係や優劣感情を生み出しているわけではありません。魂と肉体は本質が異なるのです。
私たちの本質は魂ですが、魂を一言で説明することほど難しいことはありません。
- 一人の魂が、もし、幸せに満たされて恵まれた人生を送っていたとしても、それは魂の手柄ではありません。
- 一人の魂が、もし、恵まれない、苦痛に満ちた人生を送っていたとしても、それは魂の罰ではありません。
本質の同じ魂たちが、地球という世界で、別々の体に宿ることにより、歪みという不調和が見えるようになるのです。
この歪みは、魂の歪みではありません。地球という物質界の歪みなのです。その歪みの本質を間違えると、争いを生じるのです。
というよりも、その争いごと自体が歪みの表れです。地球という「食べなければ生きていけない」「呼吸をしなければ生きていけない」という地球で生きる本質に、人間という肉体が順応せざるを得ない状況の中、魂はその肉体に宿っているのです。
ですから、差別的な目で魂を見ることは間違いです。
冷酷な人でも、温厚な人でも、みな本質の同じ魂なのです。
病気の人も、健康な人も、みな本質の同じ魂なのです。
人間が、地球で生まれる環境を選ぶことはできません。しかし、魂は地球で生まれる環境を選んでいるのです。
それと同じように、人間が運命を変えることはできません。「成功者」といわれる人と同じ努力をし、同じ財源があり、同じ環境をもっていても、「成功者」にならない人(なれない人)もいるのです。
「努力が足りない」わけではなく、「感謝が足りない」わけでもなく、ただ、「チャンスがない」のです。
このチャンスこそが運命です。
人間は運命を変えることはできませんが、魂はその運命を知っています。さらにいえば、その運命を自らが創作しているのです。
魂にとって、その運命を生きることこそが使命です。人間は幸せになることや楽に生きることを望みますが、魂が望んでいるのは調和です。
人間の中に魂が宿っているというのは、つまり、そういうことなのです。
- 人間は、幸せに生きること、楽しく生きること、らくに生きることを望む
- 魂は、地球の調和、人々の調和、人間の心と体の調和を望む
私たちの本質は「魂」です。
- 私たちの思考は、幸せに楽しく、らくに生きたいと望むため、不幸や苦痛が訪れると辛くなります。
- 魂の思考は、自らの運命を生きたいと望むため、運命と異なる人生を送っていると苦しくなります。
同じ体の中に、2つの思考…考えが共存しているのです。
魂は、すべてを知っています。これから起こる出来事も、今まで起こってきた出来事も。
人間がこれから起こる出来事に対して、むやみに抵抗したり、変わる方向ではない方向に強制的に変えようと思ったりしない限り、魂は使命を果たし、人間として生きる術を提示するのです。
私たちの本質は「魂」です。
人間の思考で物事を動かそうと思わずに、魂の思考に身を任せ「魂の使命」に委ねられるようになると、歪みからくる不幸は徐々になくなっていき、不調和から生じる事件や犯罪でさえ、減少していくのです。
「魂」を語るのは宗教だけではありません。生きるために必要な「心の元気」を保つためにも、魂の存在を知り、魂の存在を認めて、魂の本質に目覚めるのです。
私たちの本質は「魂」なのです。