「神様は乗り越えられる試練のみを与える」ことはありません。試練という解釈こそが誤りです。

現在、苦しみを抱えながら生きている人が大勢います。
あなたも、大きな苦しみを抱えている一人ではありませんか?

スピリチュアルブームなのでしょうか、
「神様は乗り越えられない試練は与えない」と悩みに苦しんでいる人々は口々に言います。

「神様は乗り越えられる試練を授けてくださっているのだから、頑張れば乗り越えられる」と信じています。

何度その言葉と乗り越える信念を聞いたことでしょう。
そういって、愚痴や泣き言を言わずに、痛々しいほど黙々と理不尽な人生を生かされているのです。

あなたが、今、苦しみの最中にいて、「神様は乗り越えられない試練は与えない」と、「乗り越えられないのは自分の我慢や努力が足りないから」と信じているのならば、今すぐに、その考えは誤りだと気づいてください。

神様は、私たち人間にとって都合の良い存在ではありません。もっともっと大いなる視野で地球を、宇宙を、存在する世界のすべてを観ているのです。

地球という世界で生きている私たち人間の感情は、常に、損得や欲、計算で動かされています。

誤解を恐れずに言えば、私たちが「試練」と感じているのは、神様から与えられたものではなく、自分自身が作り出したものです。

人間の感情が「辛い」「苦しい」と感じたときに、その感情を転嫁するための考え方の一つが試練なのです。

辛い気持ちや苦しい気持ちは、すぐに楽になりたいと願うものです。苦しみから逃れるために何ができるのだろうと人々は考えます。

辛く苦しいその時を「試練」と受け止めることで、生きる希望となったり、乗り越える活力が沸いてきたりすることは事実です。しかし、それは「乗り越えるための試練」と意味付けているだけで、その試練を神様が与えたわけではありません。

その原因をしっかりと見定めないと、辛い人生から抜け出すことはできないのです。

多少大げさな表現をすれば、「神様から与えられた試練」というのは、自分自身に一切関わりのないところから降って沸いたような試練です。

しかし、私たち人間は、生きていれば何かのきっかけで「試練」と感じるような苦しみに突入することが往々にしてあるものです。

とても繊細な内容なので、もう少し詳しくお話しさせていただきますが、「人生のすべての幸と不幸は、自己責任で起こります」と言っているわけではありません。

ある「きっかけ」を誘因として「試練」が始まったとお話しすると、「すべてが自己責任」と受け取られる方が多くいらっしゃるのですが、「行為がすべて自分の責任である」と言い切ることはできないのです。ですから、「自己責任」という表現を使っろて「試練」を説明することはできないのです。

「自己」の「責任」ではないところで、「自己」の「行為」が決定されることがあるのです。でも、それが、神様から与えられた試練と結びつけることはできません。

 

複雑ですよね。。。

 

簡単に一言でいうとすれば、「自分の人生を生きる」ということで、その人生の波に乗るか乗らないかという話になるのですが、その人生・・・いわゆる運命であっても、運命と試練は無関係なのです。

試練は、人々が苦しみから逃れるために作った思想です。ですから、「もろ刃の剣」だということは言うまでもありません。

現代のような複雑ではなかった時代、今から遡ること数十年前までは、「神様と試練の話」いわゆる、『神様は乗り越えられない試練は与えない。神様は、私たちが成長するために乗り越えられる試練のみ与えてくださる』という考えで救われた人々は大勢います。

しかし、現在はとても複雑な時代です。人々の闇が笑顔の中に埋もれているのです。「試練」という言葉一言で単純に人生を乗り切ろうとすると、思わぬ事態を招いてしまうことがあるのです。

思わぬ事態を招いてしまう前に、「試練」という言葉から、解放されてほしいと願っています。

しつこいようですが、もう一度言わせてください。

現在、苦しみの最中にいて、乗り越えられる試練だと信じて苦しみ、もがいているあなた。

そう。あなたです。

試練なんてありません。「神様が与えた試練だから我慢して乗り越える」と信じる時代はもう終わったのです。

神様は、あなたにとって都合の良い存在ではありません。
神様が、あなたに試練を与える必要はないのです。

まずは、目を覚ましてください。
不遇を試練だからと我慢せずに、あなたの人生を生きるのです。

そう。あなたの人生を。。。

「誰かに何かを言われるかも」なんて怯えることはありません。
苦しいときに世間体を気にすることもありません。

世間体や、周りからの偏見などに意識しすぎてしまうと、
苦しみは増し、思わしくない社会的行動を起こしてしまいかねません。

ですから、苦しんでいるあなたは、今は、何も考えなくてもいいのです。
辛いときに、さらに自分自身を抑圧してしまえば、
事件や事故が増えることにつながってしまうのです。

「試練」は、自分自身を抑圧する考え方です。
ましてや、神様が与える試練は、逃げる隙さえ与えてもらえません。

辛いときに、さらに自分自身の心を窮屈にする必要はないのです。
本当に…。試練を乗り越えようとしても乗り越えられない苦しみを続けた先にある未来は地獄です。

あなたが壊れてしまう前に、世界がこれ以上混とんとしないように、
私たちは考えを改める時代に突入しているのです。

 

きれいごとを言っているように聞こえますか?

 

ある意味、きれいごとなのかもしれません。しかし、私は経験者です。
試練の先の地獄を嫌という程体験してきました。

試練の先の地獄を知っているからこそ、お伝えできることがあるのです。

神様は、試練を与える存在ではなく、
あなたを肯定し、優しく見守り、導く存在だと信じたほうが幸せです。

がんじがらめになった心より、
自由な心のほうが幸せを感じることができるのです。

そのことを忘れてはなりません。
試練という解釈こそ、打ち消さなければならないのです。

人生、様々なことが起こります。
苦しみを生み出す要因もあります。

しかし、それは試練ではなく、乗り越えるものでもないのです。

試練と感じるような辛い出来事に対面しているときは、
「自分は本当はどうしたいのか」を本気で自分に問うのです。

計算や損得、世間体や常識、プライドをもったまま思考するのではなく、
自分の中で、自分の素の心に問うてみるのです。

憎しみや恨みは心の感情の一つですが、素の心ではありません。
ですから、もし、「自分はどうしたいのか」の答えが、「仕返し」というような場合は、それは、本当の素の心からの返事ではないということです。

自分の中にある素の心を知ることができると、試練と思っていたことが試練ではなくなります。本当の生きる希望が生まれてくるのです。

ですから、試練と思っているような辛い出来事は、ただの「気付かされる」ためのきっかけに過ぎず、その不運や不遇に対して感謝の念さえわいてくるのです。

最後にもう一度だけ…。お伝えさせてください。

神様は、試練を与えません。
神様が与えてくれるのは、あなたの人生をあなたらしく生きることです。

新しい時代がすでに始まっているのです。